乳首

 この時期に、シャツ1枚で(したに下着をつけないで)町内を闊歩している男性たちの胸からは、とうぜんのように、汗でシャツが透けて、乳首の位置が容易に察せられるようになっている。
 確か、岸本佐知子のいた会社では、「男性の乳首の場所当てクイズ」(ワイシャツの上から、乳首があると思われる位置をボールペンの先で指すゲーム)というものが行われていたと記憶しているのだけれど、いまの時期には、そのゲームも、ゲームとしての妙味を半減させているかもしれない。けっこう難易度は高いという話ではあったのだが、わたしはやったことがないので、じっさいのところはよくわからない。
 そもそもこのゲームは、「はたして男性の乳首の存在に意味はあるのだろうか」という深遠な問いから発生したとのことである。確かにこの時期に、あちこちの男性が服の下から容易に乳首が透けて見える状態でふつうの顔をして町中を闊歩している様を目にすると、そういう疑問にも襲われるのだろうと、得心が行く。
 よくよく考えると(というか、よくよく考えなくても)かなり奇妙な光景ではある。

悪魔的

 前にも書いたことがあるのだけれど、わたしが生まれてはじめて自分のお金を出して買った小説は、筒井康隆の『俗物図鑑』だ。当時新潮文庫から出ている筒井康隆の本の中で、一番ぶ厚く、子供心に「金を出した分のもとは取れるだろう」と踏んで、近所の小さな書店で買ったのである。
 では、そもそも、なぜ筒井康隆の小説を読もうと思い立ったのかというと、手塚治虫の『ばるぼら』に「筒井隆康」なる小説家(隆と康が逆)が出ていたからに他ならない。確か、作中では、「筒井隆康」の作品に、「多分に悪魔的な」という形容が冠せられていたように思う。当時中学生だったわたしは、この「悪魔的」の内実が知りたくて堪らなくなり、それで生まれてはじめて、漫画ではない、文字だけの本を(山藤章二のイラストが入っていたから、正確には「文字だけの本」ではなかったのだけれど)購入するに至ったのである。
 とちゅう中断を挟みながらも、数週間掛けて読み、そして、ラストで泣いた。つまり、中学生だったわたしは、『俗物図鑑』という小説に、じゅうぶん満足したということになる。満足は、確かに、した。確かに、したのだけれど、その実、自分が事前に想像していた「悪魔的」というものとは懸け離れている世界が展開されていたことに、戸惑いもしたのだった。早い話、その点に関しては、若干、不満を抱いたといってもいい。
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 十数年ぶりに『ばるぼら』を読み返す。件の箇所は、正確には、このようなかたちのものだった。

 筒井先生…ああ ご作品はよく拝見しています
 多分に 悪魔的なユーモリストですね

 この話し手が「『偉大なる母神』協会日本支部支部長」なる肩書きの男性だったから、もしかすると、ふつう一般に流通している「悪魔的」なるものとは違って意味で——純然たるほめことばとして——ここでは用いられていたのかもしれない。
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「石原慎二郎」くんが都知事選に出ていたり、主人公の作家の書く小説のタイトルが『緋の棘(ひのとげ)』だったりと、いま読み返してみると、『ばるぼら』のそういう細かいところにも反応してしまう。
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 これも前に書いたことがあるのだけれど、『ばるぼら』内の以下の台詞によって、わたしは安部公房箱男』にも激しく食指を動かされたのだ。

安部先生 最近「箱男」っていうのを読んだわ
おもしろかったわ
でも 狂気じみてるわ……

 作中の女優(では正確にはないのだけれど)の言。中学生だったわたしは、「悪魔的」だの「狂気じみてる」だのということばに、めっぽう弱かった。いまもその傾向が完全に消え去ったとはいえない。

三だらけ

 今更ながらなのだろうけれど、夏目漱石の小説にはやたらと「三」の入った登場人物・動物が出てくる。『三四郎』の小川三四郎の他に、

  • 吾輩は猫である』の三毛子と多々良三平
  • 『それから』の平岡三千代
  • 『行人』の三沢
  • 『道草』の健三

 三だらけだ。
 まだ他にも存在しているのかもしれない。
 とうぜんこの頻出する「三」にはなんらかの意味が込められているのだろうとは思いつつ、現時点においては、あまりにこちらの手持ちの情報が乏しくて、そのヒントの端緒にさえも辿り着けないのだった。
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 自伝的要素が濃いとされる『道草』には、

 彼には一人の腹違(はらちがい)の姉と一人の兄があるぎりであった。

 という記載がある(→)。姉と兄がひとりずつ、であるから、『道草』の主人公「健三」は三番目の子供として「健三」と「三」の付いた名が付けられたのだろうと鑑定しつつ、だがしかし、実際の漱石には、上にもっとたくさんのきょうだいがいたらしいから、これを「三」に執着する理由として挙げるわけにはいかない。(そもそも、ひとは「何番目の子供である」というその数字をアイデンティティの基盤として終生設定することが可能なのだろうか、という疑問もある)。
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 もしくは、ここには何ら意味はないのだろうか。漱石の生きていた時代に「三」の入った名前は、とくべつに、さわぎたてるほどのことはない、ごくありふれた物件だったのだろうか。
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 それとも、これは、作中の人物・動物の名に「三」を頻出させることにより、サブリミナル効果で、自分の他の作品にまで読者の食指を蠢かせるようにする、漱石サイドの販売促進戦略のひとつだったのだろうか。

息子局

 はたして女性の声による振り込め詐欺は可能なのだろうか。
 原理的には、おそらく「可能」(ということばをつかうのにも躊躇いが生じるところではあるのだが)なのだろうけれど、しかし、その具体的な内実となると、わたしの乏しい想像力では追いつけないものがある——早い話が、電話口で、何を、どのように語る(騙る)のだろうか、ということが、まるでつかめないのだ。
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 宝塚の男役にフェロモンを感じ取るヘテロセクシュアルの女性、という存在は、紋切り型ではあるものの、紋切り型であるだけに、十分に想像可能である。ところが、歌舞伎の女形にフェロモンを感じ取るヘテロセクシュアルの男性、という存在は、こちらの想像力の欠如というものと相まって、なかなかにその像を心の中で結びつけるのが困難である。
 男性の声による振り込み詐欺の件数を「A」とする。
 女性の声による振り込み詐欺の件数を「B」とする。 
 宝塚の男役にフェロモンを感じ取るヘテロセクシャルの女性の件数を「C」とする。
 歌舞伎の女形にフェロモンを感じ取るヘテロセクシャルの男性の件数を「D」とする。
 あくまでわたしのなかで、これらの数は、きれいに比例式として成り立つ。すなわち、

  • A:B=C:D

 というものである。
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 ここで、ひとつの仮説が生じる。
 岩明均著『寄生獣』に「田村玲子」というキャラクターが出てくる。頭だけをエイリアン(という呼称はおそらく作中では用いられていなかったと記憶しているのだけれど、便宜上、ここではこの語を用いる)にのっとられた妙齢の美女である。このエイリアンは、かなりに高度な知性を有する。かなりに高度な知性を有するだけあって、「田村玲子」は、まわりの人間に正体を隠し通すことに成功し続けている。ただひとり、「田村玲子」の(エイリアンにのっとられる前の)生物学上の母親を除いて。
 わたしの仮説とはこういうものである。
 すなわち、「田村玲子」の正体を、母親が見破ることができたのは、「田村玲子」が女性だったからではないだろうか。もし仮に、「田村玲子」にのっとったエイリアンが、男性にのっとっていたならば、同じように、男性の生物学上の母親と接触することになっていたとしても、その正体を、いつまでも——というのはさすがに不可能だとしても——しばらくの間は、決して見破られることはなかったのではないだろうか。
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 実際、わたしの頭の中で、この「『田村玲子』がもし男性だったら」というシチュエーションは、容易に想像可能である。そこで、母親は、「彼」の正体を見破ることなく、つまりは、エイリアンの正体を見破ったからといって、無惨に殺されることもなく、しばらくはそのままの生を生き続けていくという(比較的のんきな)図が展開されている。
 少なくとも、上で書いた、「女性の声による振り込め詐欺」の内実を想像する行為より、わたしにとっては、かんたんな作業である。
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 女性の声による振り込め詐欺の内実を具体的に想像するのに必要とするエネルギー総量を「E」とする。
「田村玲子」が男性だった場合のその後の母親の運命を想像するのに必要とするエネルギー総量を「F」とする。
 すると、先の比例式の末尾に、

  • A:B=C:D=E:F

 という風に付け加えることが可能である。くりかえすけれど、あくまでわたしのなかで、という限定があっての話である。しかし、この手の式は、もっともっと末尾に付け加えることができそうな気もする。

余波

 漫画の中の絵を表語文字の一種とみなすと(養老孟司みたいだけれど)長年、日本における「新しい漢字」の役割はこれらが担ってきたのだろうかという思いに囚われたりもする。
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 また、戦後の国語改革の最終目的が、あらゆる漢字の廃止にあったのなら(そしてそのベクトルが現在も修正されずに残っているのなら)「新しい漢字」を作り出すという発想そのものも湧き起こり難いのかもしれないなどと思ったりもする。
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 そもそも、わたしが知らないだけで、遺伝子組み換え規制のように、もしかすると「新しい漢字」を作り出すことに対する規制が、この世には存在しているのだろうか?
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 …という具合に、とりとめもない状態で考えてはいるものの、というか、とりとめもない状態で考えているだけあって、はっきりとした答えは出ない。「どうして日本で新しい漢字が作られることはないのだろうか?」という問いに対する答えだ。
 たしかに、「辻」や「働」や「峠」や「畑」といった日本独自の字(国字)が存在していることは小学校時代に教わって知っている。知ってはいるのだけれど、それにしても、もう少し、その数があってもいいような気が仕方がない。
 なぜなのだろう? なぜ作られないのだろう?
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「必要がないから」という答えは、とうぜん、思い付く。そして、これが一番現実的な答えなのだろうと、納得はする。納得は、いちおうするのだけれど、その実、体感レベルで、いまいちすっきりしていなかったりもしている。
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 なぜなのだろう?

祝砲

 チャイコフスキー本人は気に入ってなかったようだけれど(「幼稚」だとか「大衆向け」だとかいってたとか)でもぼくは好きですね、序曲「1812年」。(「でも」ってことないか。)最後の大砲がどーんどーんどーんどーんと連続で鳴るところなど、正に「か・い・か・ん」ってやつで。別に大砲に愛着があるわけじゃないけど。←よく知らないんす。一応平和主義者ではあるし。
 っていうか、ここでの大砲の音が、ぼくの耳には思いっ切り打ち上げ花火のそれに聞こえるんだ。それで「もっともっと鳴らしてくれ!(気持ちいいぞ!)」と身悶えするような仕儀となっている。日本の夏にぴったりといえばぴったり。あまり大きな声ではいえないけど、正直、大砲の鳴らない前半部分は退屈だし…。