托卵

 屋名池誠著『横書き登場』(岩波新書)を読んでいる。新書、という性格を考えれば特に不思議はないのかもしれないけれど、内容とは関係なく、この本の中に、「僕」や「俺」や「私」といった一人称がまるで出てこないことに、現在戸惑っている最中だ。

  • 日本語は縦でも横でもどちらで表記しても構わない(それゆえ日本語は珍しい)

 という文脈に沿ったかたちで、

  • 日本語は文中で一人称を用いても用いなくてもどちらでも構わない(それゆえ日本語は珍しい)

 といったテーマを、同時に突きつけられているような気になってしまうからである。
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 などと思っていたら、52頁でようやく「私」の文字を発見する。ちょっと安心した、というか、ちょっとがっかりした、というか、わりに複雑な心境だ。
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「私」という一人称がめったに出てこない代わりに、この本では「われわれ」が頻出する。
 ところで、「われわれ」はいったい「何人称」なのだろうか。ふと立ち止まって思う。辞書で「一人称」の箇所を調べると、堂々「われわれ」もこの中に入っている。だがここで、若干、戸惑いも覚える。
 こうやって戸惑いを覚えることじたい無知の証拠なのだろうと自認しつつ、「われわれ」は決して「ひとり」ではないのだから、「一人称」という名のカテゴリー内に「われわれ」が収まっているのは、千葉県浦安市内に位置しているのに「東京ディズニーリゾート」と堂々と名乗っているあれと似たような力学がここでも働いているような気がちらとしないでもなかったりする。
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 それはそれとして、最初から最後まで、一人称がひとつたりとも含まれていない本というのは、はたして存在しているのだろうか。