Ping-Jing

ビッグ・フィッシュ」にシャムが出ていた。シャムの双生児*1。私がはじめてシャムの双生児の存在を知ったのは「ブラックジャック」の、えーと、題名は・・・忘れた。ティーとダムといった双子の博士が出ていたことは覚えているのだが。最後に、脳みそのみとなった兄だか弟を、包帯を巻いたままの・・・あ、思い出した、題名、「ふたりのジャン」だ(いまネットで検索したところ、「ブラックジャック」には「ふたりのピノコ」「ふたりの黒い医者」「ふたりの修二」といった具合に、やたらと「ふたりの」を頭につけた作品がありますね。どうでもいいか)。そのジャンくんが、「見せ物じゃないんだ!」と叫んでガラスケースに入ってた脳みそを壊してしまうという・・・。かなりへヴィーな作品だった。(文庫では未収録らしい。)
 小学校のときの担任がやたらと手塚治虫が好きで、この作品もまとめて借りて読んだのだけれど、その夜、恐くて眠れなくなった。そんなおびえた心を慰撫してくれるのは、なんといっても「ドラえもん」にはじまる藤子・F・不二雄の諸作品で、そうそう、「ビッグ・フィッシュ」を観ながら、「ある種のフィクションは確かに眠れぬ夜の子供を慰めるのに有用な手段ではあるよなあ」なんてことを思った。あの映画に出てくるのは「眠れぬ夜の子供」ではなくて、「死にゆく老人」なのだけれど、まあ「弱ってる」ということで似たようなものではあるだろ。(乱暴かな?)
 養老孟司が繰り返し指摘する事実「日本ではシャムの双生児を見かけない、なぜなら新生児の時に処分してしまうからだ(しかもそのことは決して問題視されない)」をちらっと思い出す。だから何だ、というわけじゃないのだけれど。ただ、中野翠が「女優の使い方が気に入らない」と書いてたのはもしかするとこのシャムの双生児のことかなあと思ったもので。
 映画もマンガも、もはや純粋に見せ物としてのメディア足り得なんだなあ・・・ってこの発言タブーか? 見せ物って言葉は語弊があるかもしれないけど、けれどティム・バートン手塚治虫がシャムの双生児たちにその役割を期待していなかったとしたら嘘になるだろう。作品の効果としての役割。(なんかまたここでこの前の真紀子の娘の件を思い出す。要するに、あそこでも真紀子の娘を「見せ物」として扱おうとしてたんだろ。雑誌を売らんがために。しつこいか。)といって、別にティムや手塚がシャムの双生児にまったく冷酷というわけではないのだけれど。むしろその逆であることは認めるし。小人プロレス、とかそういう方面にまで広がりそう。うーむ。言葉のみでなんとかなるって話じゃないのかな。って、取って付けた結語で申し訳ない。

*1:シャムーー現在のタイーーで発見されたことからこの名称がついたとのこと。ふーむ。