重厚感

 谷崎の『細雪』を読む前に、「細雪」ということばや作品の評判から(そして「谷崎潤一郎」という作家名から)、ひとはあるイメージを抱いてこの小説に臨むことになると思うのだけれど、実際に『細雪』を読み終えた経験があるひとで、そのときの、事前にぼんやりと抱いていたイメージをことこまかに想起できるひとは、はたしてどのくらいいるのだろうか?
 自分の場合、かなりに怪しい。一応、いまでも、そのイメージのかけらのようなもの(やはり「雪」にまつわる話なのだろうか? といったような漠としたイメージ)は掴むことはできるものの、それでも、実物の『細雪』の、あの圧倒的な重厚感に触れた後では、そのような……まあ、はっきりと、ステロタイプでつまらないイメージなど、ほんとうに、塵の如くに弾き飛ばされてしまう。勝負になど、はなから成らない。当たり前だが。
 これはもちろん『細雪』だけに限った話ではなく、あらゆる名前とその実物との間にいえる関係なのだろうけれど、個人的には、『細雪』周辺で味わえる、いわゆる「期待を裏切れた感(いい意味で)」というものは、わが人生の中で五指に入る逸品であったりする。
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 というわけで、これでもう何度目になるのか、少なく見積もっても五回には達していると思うのだが、現在、再び『細雪』を全篇通して読んでいるところだ。どうしてこうも惹かれるのか。飽きやしない。てきとうに頁を捲ったところから読んでもいいのだけれど、最初からていねいに一文一文追っていっても、もちろん、佳肴。たまらない。
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 前に読んだときは、蒔岡幸子の不眠の具合にどうにも興味が向かっていたのだが(というか、同情をしていたのだが)、今回は、各登場人物の書く手紙の差異に、がぜん注目している。もしかすると、きちんとしたモデルがあるのかもしれないけれど、たとえそうであったとしても、そのバラエティの振幅度が、こちらの壷に、みごとに嵌る。貞之助も幸子も鶴子も、雪子も悦子やお春も、雪子の三番目の見合い相手(薬品会社の社長)も辰雄のお姉さんも、そしてなにより、シュトルツ夫人ことヒルダ・シュトルツも、どうして君たちはそれぞれの属性に則ったにいかにもそれらしい文章を綴ることができているのだろう、すばらしい、と、両の拳に力を入れつつ、どうにも危ない悶え方をしてしまう。ほんとうに、たまらない。
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 と、書いていて思うのは、この小説内では、四女・妙子の書く手紙がひとつも登場していないことである。(たぶん登場してないだろう。ちょっと自信がない。)読者はもちろん、他の登場人物さえ、この人物の複雑な内面が掴めないことを考えると、このことには、確実に意味があるものと思われる。

『M&D』読了

 最後の方で喋る犬が(「一応」という但し書きつきで)再び登場と相成ったのは慶賀に堪えない…ということに個人的にはなるのけれども、あともうひとつ、「退屈でない」と「面白くない」という形容は、必ずしも同じ意味ではない——つまりは並列可能——ということが、体感レベルで、わかった。(逆にいうと、「退屈」で「面白い」ものも、この世には存在しているということだ。)
 真情として、この『メイスン&ディクスン』を「面白い」といい切ることは、わたしにはできない。もちろん「感動した」などとは、口が裂けてもいえない。評判である「笑い」の部分に関してもいまいち不発気味だった。だけれども、それは決して「退屈」だったということは意味していない。むしろ、この「退屈でなささ加減」(変ないい方だが)は、尋常でないと思った。奇妙という形容を比較級で表す機会は、わたしの日常ではそうはないのだけれど、この小説における奇妙さは、最大級で表せるような気もする。
 何にせよ、今回はじめて、噂の(と頭につく)トマス・ピンチョンの作品を読み終えた。気に入ったのか気に入らなかったのかさえも、実のところよくわかっていない状態だ。その癖、次回再び新潮社から出ることになっている他のピンチョンの作品もまた図書館で予約してみようと思わされている、ということは、すなわち、今回、食指は十二分に動かされたということである。捕らわれた、ということだ。よくわかっていないながらも。

スイカと牛乳

 原寸大の精巧なクラゲのレプリカを冷蔵庫に入れ、十分冷えた数匹を、身体に抱き寄せて眠りたい、という妄想にもこの激しい暑さのなか駆られたりもするのだが、そうすると、今度はあの有名な葛飾北斎のタコの絵を想起させられることになり、なかなか困ることにもなる。別にエロやグロを目指しているのではなく、単純に、涼を得るという極めて実用的な目的のもと、妄想しているだけなのだが。
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 ところで、子供の頃読んだ本に、こんなクイズがあった。「牛乳よりスイカの方が、水分の含有率が高い:○か×か?」(「クイズ面白ゼミナール」という番組が昔NHKであって、その子供用の本を親が買ってくれたのだ。)
 正解は、「○」で、れっきとした液体である牛乳より、固体であるスイカの方に水分パーセンテージの軍配が上がるということに、「なるほどなあ、さすがにクイズにするだけのことはある題材だなあ」と子供心に感心したものである。記憶のみで書いているから、もしかすると間違っているかもしれないが。
 牛乳よりスイカの方に水分が多く含まれている、というのならば、スイカとクラゲという選択肢ではどうなっているのだろうという風に、つい好奇心が頭をもたげかかるのだけれど、クイズとして、それはあまりに興をそそられる題材とはいえない。軍配がどちちに上がるにせよ(知らないのだが)スイカとクラゲでは、上のような感心はできない気がする。やはり、スイカと牛乳というチョイスの妙が、ここでのポイントだったのだ。
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 いきものがかりだの昔のドリームズカムトゥルーだのブリリアントグリーンだのマイリトルラバーだのエブリリトルシングだのグローブだの青い三角定規だのといった「男ー女ー男」といったグループの配列を見ると、どうにもわたしは、水の化学方程式を思い浮かべてしまう。

  • H-O-H

 こういうものだ。「嬲」という漢字を思い浮かべるより、こちらの方が、本人たちにしてもよっぽどよろこばしいような気がするのだけれど、どうなのだろう。

『M&D』読み中

『メイスン&ディクスン』を読んでいる(また「スン」を「ソン」と打ち間違えていた)。面白いのか? よくわからない。退屈なのか? それは、ぜんぜん違う。奇妙なのか? 抜群に、その通り(喋る犬はこの後も登場してくるのだろうか?)。
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 それにしても、カヴァー裏に載っている著者紹介のテンションが、ちょっとわたしには恥ずかしい(→)。曰く、

  • 現代世界文学の最高峰に君臨し続ける謎の天才作家。
  • 第3作『重力の虹』(1973)でアメリカ最大の文学賞である全米図書賞を受賞するが、本人が授賞式に現れず物議を醸す。
  • ノーベル文学賞候補の常連だが、受賞しても式に現れないのではと囁かれている。

「現代世界文学」「最高峰」「君臨」「謎」「天才作家」「アメリカ最大」「物議」そして「ノーベル文学賞候補」(「ノーベル文学賞」そのものでないところがポイント)…トリガーの目白押しである。いったい誰に「囁かれている」のだろうか? 訊いてみたい気もする。
 などといいつつ、こうした惹句にもののみごとに取り込まれている自分自身の単純さが、実はいちばん恥ずかしい。

日本の漢字

 評判通り、高島俊男『漢字と日本人』もおもしろかったのだけれど、いまのわたしの渇を癒したのは、むしろ笹原宏之『日本の漢字』の方だった(→)。この本で、どれだけ日本人が創意工夫をして——たとえ現在まで流通していなくとも——数多くの漢字を作り上げていたのかが判った。その漢字の群を巨大フォントで目にして、胸を撫で下ろしさえした。
 とはいいつつ、こうした漢字への創作意図が、ただの妙としてだけ終わってしまうのはもったいない気もする。もっと有効活用できないものか。確かに、この本で紹介されていた「(リンパ腺の)腺」という漢字が、江戸時代から現在まで生き続けられているという強運には感動を覚えたのだけれど、何というか、わたしからすると、「腺」という漢字は、色気に乏しい。実用に向かなくとも、もう少し色気のある漢字がこの国に数多く出現してくれたら嬉しいと思うものの、そうはうまい具合にことは運ばないのだろうか。

一人三役

ばるぼら』内の美倉志賀子は、夫が精神病院に入院した後、いったいどこに「勤め」はじめたのだろう。作品内では、その「勤め」先は明言されていない。病院で夫に尋ねられても「いいじゃないどこだって」とはぐらかしている。
 実のところ、彼女は、手塚治虫の「スターシステム」にのっとった形で、次作の『シュマリ』内で働いていたのではないだろうか。つまり、彼女は、『シュマリ』内で、大月妙そして太財峯といった役柄名で「勤め」ていたのではないか。ということを、今回再び『シュマリ』を読み通してみて思ったりした。
 顔とスタイルから、この三者を同一人物と見なしても構わないだろう。そうなると、『ばるぼら』内で、決してその魅力がじゅうぶんに開花されていなかった(夫からただ疎んじらているだけだった)美倉志賀子が、『シュマリ』では、立派に主役の男たちをも凌ぐかたちで活躍していたことになる。しかも、一人二役という難役で。
 個人的に、わりにこの考えは気に入っているのだが(救いにもつながっている気がする)、もちろん正解はやぶの中だし、しかも少々マニアックである。わからないひとにはまるでちんぷんかんぷんだろう。申し訳ない。でも書かずにいられなかったので書いてみた。
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 ところで、『ブラックジャック』のピノコを筆頭に、手塚治虫の描く女性たちはファザコンが多いような気がする。美倉志賀子も太財峯も、このタイプだろう。(そして概して彼女たちは、男運が悪い。悪いというのがいい過ぎなら、愛する男から、ストレートに向き合ってもらえない傾向がある。)

托卵

 屋名池誠著『横書き登場』(岩波新書)を読んでいる。新書、という性格を考えれば特に不思議はないのかもしれないけれど、内容とは関係なく、この本の中に、「僕」や「俺」や「私」といった一人称がまるで出てこないことに、現在戸惑っている最中だ。

  • 日本語は縦でも横でもどちらで表記しても構わない(それゆえ日本語は珍しい)

 という文脈に沿ったかたちで、

  • 日本語は文中で一人称を用いても用いなくてもどちらでも構わない(それゆえ日本語は珍しい)

 といったテーマを、同時に突きつけられているような気になってしまうからである。
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 などと思っていたら、52頁でようやく「私」の文字を発見する。ちょっと安心した、というか、ちょっとがっかりした、というか、わりに複雑な心境だ。
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「私」という一人称がめったに出てこない代わりに、この本では「われわれ」が頻出する。
 ところで、「われわれ」はいったい「何人称」なのだろうか。ふと立ち止まって思う。辞書で「一人称」の箇所を調べると、堂々「われわれ」もこの中に入っている。だがここで、若干、戸惑いも覚える。
 こうやって戸惑いを覚えることじたい無知の証拠なのだろうと自認しつつ、「われわれ」は決して「ひとり」ではないのだから、「一人称」という名のカテゴリー内に「われわれ」が収まっているのは、千葉県浦安市内に位置しているのに「東京ディズニーリゾート」と堂々と名乗っているあれと似たような力学がここでも働いているような気がちらとしないでもなかったりする。
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 それはそれとして、最初から最後まで、一人称がひとつたりとも含まれていない本というのは、はたして存在しているのだろうか。