ステロタイプ

 下の文章、「北島マヤ」を「大竹しのぶ」、『ガラスの仮面』を『私一人』に置き換えてお読み下さい。けっこういいとこ、突いてるような。

 この世はもう分かり切っている――だからみんな平然とステロタイプになっている、だけど、唯一北島マヤにはそのことが分かってない。オドオドしてるってことと、平気で泥饅頭喰っちゃうことの激しさって、実はこれなんだよ。平気で泥饅頭喰えちゃう激しさってのは、「自分てオドオドしててダメだなあ……」と思ってることの埋め合わせなんだよね。ちょっと尋常じゃないくらい激しい彼女は、ちょっと尋常じゃないくらいオドオドしすぎてるっていうそれは、実は彼女が「なんにも出来ない」と思いこんでるからなんだよね。北島マヤがなんか新しいことを始めるっていうドラマの進行は、実に、彼女はまだここが無能であったっていう、そういうドラマの再開なんだ。この世にありとあらゆるものがステロタイプでしかない以上、この世のオリジナルは、全部自分で作っていかなくちゃいけないっていうのが、『ガラスの仮面』というドラマの膨大なる基本コンセプトなんだ。だから、このドラマの進行パターンは一定している。北島マヤはそこにのめり込み、そのことによって、周囲も自動的に巻き込まれて行く。巻き込まれることによってその周囲は、「あ、自分は今までステロタイプの世界にいた」ってことに気づかされちゃう――だからこそ感動するっていう、そういう仕組みでしょ。

 橋本治『ロバート本』より。これじゃあ、『私一人』って本を褒め過ぎになるかな?