できないことができるようになること

橋本治の男になるのだ」という1997年に出た本を、当時のぼくは計3回読み直した。そしてまた今回新たに読み直して、ここに書かれていることが、自分にどのような作用を及ぼしたのだろうと考えてみた。<思い込みの平均値を維持する努力は一番むなしい努力だ>という箇所は、わりに染みこんでいるような気がする。というか、もともと自分にあったそうした思いが、この本を読み、より強化されたような気がする。<「できない」を認めたら、いつかは「できる」ようになる>――これって、「「わからない」という方法」につながるテーマではあるね――は、この本を読んで9年しか(しか?)経っていないから、それこそ、まだ、わからない。「できない」と認めても、それでも、いつまで経っても「できない」ことって、自分の中にはまだまだたくさんあるし。もしかして、「できない」という認め方が間違っているのか? まだどこかで、そのことが「できない」なんてありえっこない、単に本気を出してないだけ、みたいな思い込みが潜んでいるのか? 
 ん。ん。ん。

「自分はできる」と思い込む人間には、もう一つ、「自分のしていることはえらい」と思い込む特性があります。「自分のしていることはたいしたことだ、他人のしていることはたいしたことじゃない」です。

 どき。どき。どき。
 いや、べつにここまで傲慢な人間じゃないけれど――と思いたいけれど、たしかに、自分の関心のないことには、徹底して関心がないことは、たしかにあるなあ。だから、できない? でも、それじゃあ<思い込みの平均値を維持する努力>と拮抗しないか、なんて言いぐさを垂れてるようじゃ、それこそ、いつまでたっても、できることさえできっこない、か。うーん。やっぱり気をつけよう。少なくとも、「認める」ことは、できるようになろう。(それがいちばん難しいのか?)