鷲田清一の「きく」と「まつ」

 昨年出た「「待つ」ということ」が面白かったので、同じく鷲田清一の「「聴く」ことの力」に手を出す。うん、これも面白かったなーと満足。そう。面白いことは、面白かったんだ。だが、両者共々、どう面白かったのかと問われると、とたんに口が重くなってしまう……。例えば、2冊にまたがって登場しているフランクル「夜と霧」のこんなエピソード。「ナチの強制所で死者が多く出るのはクリスマスから新年にかけてである」という話。これは、

 過酷な労働条件によるものでも、悪天候や伝染性疾患によるものでもない。「クリスマスになったら家に帰れるだろう」という、素朴な希望に多くの収容者が身をゆだねた結果だというのである。過酷な毎日が続くなかで生き延びるには、ありえないような極小の希望にそれでも身をゆだねるよりほかない。それすらも粉々に砕かれたのである。(「「待つ」ということ」)

 面白い。という言い方には問題があるか。つまり、「いろいろ考えさせられる」ということなのだが。そして、ここから、氏はフランクルのこんな言葉を紹介する。

 ここで必要なのは生命についての問いの観点変更である

 人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである(「「聴く」ことの力」より)

 人生から何を期待できるかではなく、人生が何を我々から期待しているか、か。ふむふむ。
 ――で、2冊とも、サンプリングっつーかコラージュっつーか、こうしたエピソードの釣瓶打ちに、どどどどどどっと酔わされる感じなんだ。そのため、本全体から、特出しているところを感知できなかったというか。単純に、きみの記憶力・読解力に問題があるんじゃない? と言われれば、うんそうかもね、と力なく肯うしかないのだけれど……。
 上から教え諭すのではなく、考えるヒントを与えるってことなのかな? よりよい「聴く」と「待つ」に向けての。