スーツ含有

 帰りの東京駅で、雑多な服装の人々の中に、スーツ姿の男性が含まれているのを見て(ま、自分も含まれているのだけれど)、その同一性に、何か、頭がくらくらするようなものを感じました。今更ながらですが。どうしてみんな一緒なのだろう? 顔以外。ふだんはそんなこと、あまり意識はしないんだけどなあ。文章における「である体」の混淆率なんてものにまで思いを馳せてしまった。橋本治氏も、父の背広となぞらえていたくらいだし。東京駅構内における人々のカオスが、そうしたものを喚起させるのにちょうどよかったのかもしれません。