トーキングケアか

 正直、今だって、人様に胸の張れるような「人間関係」を築けていない。どころか、充分、「自己実現」に足を捕われているところがある。うーん。で、「君は、自己実現のための人間関係、という概念を抱いていないか?」この問いに、おずおずと、「抱いているかも・・・」とカミングアウトすることにいかなる意味があるのだろうか。自ずから人非人であると認めてるようでつらい。傷口の癒えてない腹を、素手でまさぐられたような気分。それほどまでに堅固な「自己実現」信仰だともとれるが。(ちらと思う。漱石が言う「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。」ってこういう状況を指してるのか。)
 ところで、「自己実現」を信仰としてとらえるのは、冗談としても、やはりおかしいっすね。「自己」と信仰が対等に語られるわけがない・・・というのは、これまた信仰に対する思い違いかな。もっと、こう、それこそ(信仰は)「自己」を超えたものを対象としていると、信じては、いる。今のところ縁はないが。著者チャールズ・テイラーは、そうした大いなるものへの思いを大切にせよと説いてるように思えたのだけれど。違うのかな。そういやフランクルも、攻撃とまではいかないけれど、マズローの「自己実現」説をはっきり好いてはいなかったし。次に流行るのは、もしかすると「自己超越」ってことばになるのかな。具体的には、「対話すること」の大切さ、とか。ふう。対話かあ。相も変わらず苦手路線なんだよなあ・・・。