けっこう痛い

 えー、学生時代にちょこっと心理学を齧ったから、まあふつうに「マズロー欲求段階説」なんてのにも目を通してる。参照。つまり、人間、生理的な欲求が満たされれば、最後に「自己実現」に向かうんだよ、って説。つーか、「人間の最終的な欲求は“自己実現”である」と断定しちゃった方が早いか。学生時代、はじめてこの説に触れ、「そうだ、今まで私がやっていたことに間違いはなかったんだ」と、ようやく運命のひとに会えたような感動に震えた。大げさ。と同時に、それまで続けていた「自己実現」への努力に拍車がかかった。ある意味、信仰の道にはまり込んだとも言えよう。はは。そして、という接続詞が妥当かどうか、ともかく、そして、人間関係は、思いきり希薄だった。人間関係によりも、「自己実現」にエネルギーをかける方が順序としては先だろう、そもそも、「自己実現」を果たした上で築かれる人間関係でないと大嘘だ、などと、まあ若年の脳みそで信じていたわけだ。人間関係を築く能力のつたなさを、そんな具合に言い繕っていたともとれるし、また、全部が全部誤りだったわけでもないと、当時の自分の肩をポンポンと叩きたくもなる。ふう。
 少し脱線。さっきひさびさに「ゴーマニズム」2巻を眺めた。1993年の作。(この頃の「ゴーマニズム」はほんとうにおもしろかったですね。ヘアヌードの回まで。自主規制問題が勃発したあたりから雲行きが怪しくなってきたが。)連載が2ページから8ページへと大幅に増量した回。大学時代の小林よしのりが、学生運動に嫌気が差し、漫画描きに没頭する話。そこで若き日の小林は叫ぶ。「今は連帯よりも個の確立が先じゃー!」。同調、しましたねえ、これには。「我が意を得たり」ってこういうときに使うんだとしみじみ思った。今の今まで影響受けっぱなしだったかも。だからなんだと言うのではないが。脱線終わり。
 しかし、この「自己実現」ってことばには、ややもすると「なんか肝心なこと言い落としてる」的ずさんさが漂うね。「自己責任」とか「勝ち組・負け組」なんてのと一緒で。ついでに言うと、「人間関係」ってことばもずさんといえばずさんなような。使わない方がいいのかな。毎回そんなこといって、それでもどうしても使わざるを得ない破目になるのだが。