越境の仕事

「女優に比べると、男優ってのは駄目だね。自分のフェミニニティ(女性性)を受け入れようとしないから、おもしろくない」とフランソワ・オゾン監督が言ってたとか。まあフランソワ・オゾンなら確かにこんなこと言いそうだ。「ホームドラマ」(長編デビュー作)ってまさにそういう作品だったし。
 ところで、トルーマン・カポーティの生涯ってフィクション化されてたのだっけ。特に注目すべきは、デビュー当時の「美少年」(カギカッコ付きっす)の頃なのだけれど、どうなんだろう、これこそ映画化したらおもしろいんじゃないか。アンファン・テリブル。恐るべき子供。と、言われてたんだそうです、長編第一作「遠い声 遠い部屋」で。(島田雅彦もそう言われてたそうだが、彼を映画化しておもしろいかどうかの自信はない。)当時トルーマン23歳。写真で見ると、まあ「美しい」といってもさぶさかではない容貌。つきあっていた大学教授(男性)にこの作品を捧げたとか。
 どうっすかねえ。別に実話に忠実に作ることはない。これを骨格として、肉付けは自由。何なら日本人でも全然オッケー。つーか、話としては、そっちの方にもっていきたかったわけで。
深呼吸の必要」を観てきた。週刊新潮、ベタ褒めだ。なるほど。誉めるわけだよ。なぜならここには、フランソワ・オゾンのいう「フェミニニティを受け入れている男優」がいないから。比喩だよ、比喩。わかりづらいかな。この「男優」に「女子高生」「沖縄住民」を入れても可。「フェミニニティ」に変わるのがなにかすぐには思いつかないが(「異端性」とか「狭量さ」かしら)、つまりは「トラッドに対する信仰」、それが週刊新潮の眼目だもんなあ。「フェミニニティを受け入れている男優」なんて奇異の目でしか見られないだろうし。ゲイならゲイ、オカマならオカマ、ひきこもりならひきこもり、韓国人なら韓国人、皇族なら皇族、みんな、ステレオタイプからの逸脱を許されていない。そのおもしろさは、週刊誌になら通用する「おもしろさ」ではあるのだけれど、映画、となったらなあ。少なくとも値段は倍以上違うし。
 ちょっと脱線。みんな、そんなにタイプの異なる人と仲良くなりたいのかな。別に、無理して仲良くなる必要ないのに。仕事する上で支障なくつきあえれば構わないのではないか。「仲良くなるのは無条件にいいことだ」って手放しで絶賛されても。それって、かなり乱暴な価値観ではないか。以上脱線終わり。
 最近ドラマ観てないから知らないんだけど、成宮寛貴、なんであんなつまらない役で出たんだろ?「深呼吸の必要」。もと高校球児役。つまらないというか無難というか。彼にこそ「フェミニニティを受け入れていない」ってことばがあてはまるな。って、そうか、なんかの劇では女役をやってたんだっけ。ふーむ。見解発表失敗。だから、成宮に、カポーティの若い頃の役なんておもしろいんじゃないかと結び付けてみたのだが(似てないけどね)、ちえ、無駄足かあ。