顔話一致

 主演ジャック・ブラック、この顔が正直苦手で、観るのを敬遠していた「スクール・オブ・ロック*1高橋源一郎の日記や、毎日新聞で取り上げられていた(「音楽は顔でやるんじゃない!」)のをきっかけに、どれどれ、といった感じで覗いてみる。結論。確かに「音楽は顔」じゃないね。
 名門私立校に「偽教師」として赴いたジャック・ブラック。彼が、そこの子供たちとロックバンドを組み、コンクールで一山当てようとする話。ふふふー。定番。しかし、いや、定番ではないかなと思い直す。
 1週間前に、「深呼吸の必要」と「下妻物語」を観て、前者で描かれているような、セオリー通りの成長映画って苦手、と書いた。確かに「さわやか」な映画なんだけれど、それでも、その「正しさ」にちょっと辟易、というか。(いい映画ではあると思う。)で、この映画なんだけど、うーん、「さわやかさ」とは、かなりかけ離れている。それは、主演のジャック・ブラックに負うところが大きいし(濃いね・・・)、加えて、子どもたちが、決して「矯正」されず、もともとの資質が伸ばされている感じがして、そこがなんとも、いいっすねー。好みだ。そう、苦手なのは、結局のところ「矯正」なんすね。自然を無理にねじ曲げる、鋳型にはめる、みたいな。
 ジャック・ブラック、別に子供たちの未来になんて興味もってないから。ただ楽しくてやってた、という。途中、勝手に教師辞めちゃうし。まあそのくらいのちゃらんぽらんさ加減がかえって好ましいです。基本的なところでは、大人の責任というのをちゃんと自覚してる、ってのも――定石かな、と思いつつ――「いいじゃないっすか」と支持します。
 ジャック・ブラックの友人役、実にいい顔をしたマイク・ホワイトが、この映画の脚本を担当したと知って、ああ、なんか納得のいくはなしだと思う。顔文一致、ならぬ、顔話一致、だ。
 ザ・フーの「サブスティテュート」が、いまも耳から離れない。