書評考

「これ、おもしろいよ」と言われて手にとった本で、はたしてほんとうに満足できた本があったろうか、と思う。もちろん、あることにはあるのだ。だが、私の場合、それはほとんど漫画限定だ。活字系の書物をひとにすすめられて満足したというのは、小学校6年のときに担任からもらったSF(名前失念)くらいかもしれない。
 ただし、書評はよく読む。もちろん、おもしろい本に出会いたいが為の情報収集としてだ。よく読む、といっても、これもけっこう偏っていて、毎週「朝日」「毎日」「読売」「日経」「週刊文春」の書評欄をチェックしているくらい。昔はネットでの文章も眺めていたのだが、あまりにも埒があかなくて、今ではとんとごぶさただ。どちらかといったら、好きな作家等が、自著で「これ、おもしろいよ」という本をこまめにチェックしている回数の方が多いかもしれない。つまり、好きな人に一歩でも近づきたいが為の読書行為だ。(ただし、最近はこれにもとんとごぶさたではある。)
 だから、はっきり言って、知り合いでも、ましてや好きでもない赤の他人の書評というのは、どこがおもしろいのかなあ、と思う。もしかすると、それを読んでいるうちに書き手のことも好きになるのかもしれないが、はたして、その行為に意味はあるのだろうか。本を詠む為に本を読む。うーむ。なんだか堂堂巡りだ。例えば「recoreco」という書評雑誌。あれの楽しみ方もいまいちよくわからない。
 というわけで、自分がおもしろいと思った本をひとに紹介する祭に、ちょっとしたためらいが生じる。おもしろさというのはひとそれぞれだからなあ。加えて、映画やドラマ、音楽と違って本は時間支配率が大きいからなあ。下手に紹介はできない、というのもある。書店に行き、ぱらぱらと本をめくり、「あ、これおもしろそうだな」と思って読む。そして実際におもしろがって、完結。いや、血となり肉となり生きているのだ、という説もあるらしいが、その一歩上を行きたいと、ちらと思ったりもする。(ああ、自分が読んだ本を他人がどう読んだかという興味を満たすためにも存在するか、書評は。でも、それでおもしろかった経験もあまりないんだよなあ。) 要するに、大切なのは本を読んだこと、ではなく、本を読んでどう考えたか、だとは思うのだけれど、それを表すのは「書評」よりも数倍難しいだろう。