カーテン――7部構成の小説論

先に、この本について「小説論というよりエッセイに近い」と書いたのだけれど、ここんとこ、夜寝る前にちょこちょこと読み直し、ああ、やっぱり、「小説論」なる言語選択で正解かなと感じた次第であります。いろいろと、小説について、示唆に富む文章に溢れているしね。

小説家は、詩人や音楽家とは逆に、自分自身の魂の叫び声を黙らせる術を知らねばならない。(p.76)

とか。もうひとつ、同じページ内の、

小説の唯一のモラルは認識であり、実存のそれまで未知だったどんな小片をも発見しない小説はインモラルなのだ。

とかね。なるほどなあ、とぽんと膝打つ明瞭さ。(上の「魂の叫び声」に関しては諸説あるのだろうけれど、ひとつの提出されたモデルとして「なるほどなあ」と。)
ただ、この本、出て来る固有名詞にこちらがあまりに馴染みがない為、いまいち理解しにくいところもあります……。フランツ・ハルス? え? 誰それ? ってかんじで。そうそう、帯にもあるように、大江健三郎も取り上げられていますよ。ただ、それにしても、『人間の羊』なる作品。どうなんでしょう。いちおう、渋い選択と表しても構わないような……。
というわけで、一読だけでは身に染みなかったので、折を見てちょこちょこと読み返してはいる次第であります。はい。そうそう。この本で再三取り上げられているカフカも買いましたよ。(新潮文庫の『城』。)カフカって、『変身』のおもしろさがいまいちピンとこなかったから、あまり気にしてなかったのだけれど、

計量士Kを押しつぶすのは暴虐ではなく、城の非人間的な時間である。(P.164)

みたいなフレーズに、「お、これはもしかして今読むとおもしろいかも」と反応し、まあゆっくりと、牛の歩みの如き速度で読んでいこうかなと考えている次第であります。(ちなみに、わたくし、ミラン・クンデラの小説は読んだことありません。読みたくはあるのだけれど。『存在の耐えられない軽さ』とかね。でも、今読んでも、おもしろいのかな?)