「文盲」

アゴタ・クリストフの、短くも端正な自伝です。「のだめカンタービレ」の影響を受けて英会話を始めたような輩(わたしのことだ……)とは100万光年も離れた気高さを持ってます。
この本に載っている次の言葉が、上の「エクソフォニー」を思い出させる契機となりました。

わたしはフランス語を三十年以上前から話している。二十年前から書いている。けれども、未だにこの言語に習熟してはいない。話せば語法を間違えるし、書くためにはどうしても辞書をたびたび参照しなければならない。
そんな理由から、わたしはフランス語もまた、敵語と呼ぶ。別の理由もある。こちらの理由の方が深刻だ。すなわち、この言語が、わたしの中の母語をじわじわと殺しつつあるという事実である。

じわじわと殺しつつある……か。それが、多和田葉子となると、以下のようになるのです。

わたしはバイリンガルで育ったわけではないが、頭の中にある二つの言語が互いに邪魔しあって、何もしないでいると、日本語が歪み、ドイツ語がほつれてくる危機感を絶えず感じながら生きている。放っておくと、わたしの日本語は平均的な日本人の日本語以下、そしてわたしのドイツ語は平均的なドイツ人のドイツ語以下ということになってしまう。その代わり、毎日両方の言語を意識的かつ情熱的に耕していると、相互刺激のおかげで、どちらの言語も、単言語時代とは比較にならない精密さと表現力を獲得していくことが分かった。

まあ、こんなめんどくさいこと、それこそ強制されたらたまったもんじゃないだろうなあ……。