堅固な世界

 なつかしい。筒井康隆「旅のラゴス」を再読したよ。ぼくが昔読んだのは徳間文庫版だったんだけど、いつの間にか新潮文庫にも収録されてたんだね。
 ところで、新潮文庫筒井康隆、けっこう絶版になってんだなー。短編は自選集に入ってんのかもしれないけれど、「朝のガスパール」とか「歌と饒舌の戦記」とか「おれの血は他人の血」とか、ああいった長編はもう読めないのかな? 特に「ガスパール」の千葉敦子の箇所は、「パプリカ」がらみでもう一回読んでおきたかったんだけどなー。
 で、今日の話題は「旅のラゴス」についてだった。
 よりことばを重ねるならば、「旅のラゴス」内の一人称の変化についてだった。
 そう、内容については特に今さら言うことはないね。オーソドックスに愉しめる。空飛ぶ馬のシーンとか、ああいうビジュアル化しやすい箇所はよく覚えていたよ。あと、<どのような取引であろうと、金を払った方が精神的優位に立つ>って“学説”とかね。
 今回、読み返して、ちょこっと気になったのは、物語の中盤、140ページ15行目で、それまで「おれ」を使っていた語り部が、急に「わたし」に変えたところなんだ。
 全文引用したほうがいいかなあ。かなり長いからなあ。
 流し読みでいいよ。参考までに。(「おれ」と「わたし」は濃くしといた。)

 一年後、ニキタが妊娠した。カカラニが嫉妬したり苛立ったりするのをおそれて、おれはしばらくの間カカラニの寝室へ三日にあけず通い続けた。その甲斐があってカカラニも妊娠した。
 大がかりな侵略がそのころ、一度だけあった。大陸西方にわが王国を真似たものが、ならず者によって作られ、山賊まがいの行為で周囲の村を荒らしまわり、その勢いで王国にまで押し寄せて来たのだった。だが王国にはカカラニが存在したし、近代的火器が揃っていたし、兵士たちは森の中での戦いを得意とした。四日にわたる戦いで王国軍の三倍近い敵軍勢は半数ほどがコーヒーの肥料となり、敗退した。森の木立の間を宙に浮遊してあちこちに出現し、全軍を指揮するカカラニの姿は敵兵をふるえあがらせたという。
 ニキタとカカラニは前後してどちらも男の子を生み、国内はまたしてもお祭り騒ぎとなったが、わたしは祝典への出席はご免被った。……

 どうだろう。何らトーンに断絶はなく、だけれども、一人称だけが変化をしているよね。
 さて、これを一体どう解釈すればいいのだろう?
 妻たちの出産、もしくは、敵軍の侵略を境にした、中年男性のアイデンティティの変化?
 あるいはまた、この「おれ」と「わたし」は、同姓同名のまったくの別人であるとか。(――は、ないか。さすがに。)
 この本の、Amazon商品紹介欄には、

 物語を破壊しつづけた筒井康隆が挑んだ堅固な物語世界。

 なんてことばが踊ってるし、一読、そのようにも受け取れるんだけれど、案外、この小説って、そうした「堅固な物語世界」に対する意義申し立てが存分に含まれてるのかもしれないね。