後悔っていうなら

 川上弘美の「溺レる」に、「後悔っていうなら、ほとんどいつも後悔」というフレーズが出てくる。ぼくは、てっきりこれを、太宰治の「斜陽」で読んだとずっと勘ちがいしてたんだ。「斜陽」の女主人公が、書きそうではあると思う。手紙の中で。<生まれて来てよかったと、ああ、いのちを、人間を、世の中を、よろこんでみとうございます>なんてことをふつうに綴ってるくらいだし。単体で取り出すと、トーンとしての、さほどのちがいはないよねえ? 
 日常でも、このフレーズがふとした折りにひょいと頭に浮かんだりする。「後悔っていうなら、ほとんどいつも後悔」。でも、その際に思い浮かべる「後悔」という語には、あんまり重さはなかったりする。「後悔ってしたことある?」「んー、後悔っていうなら、ほとんどいつも後悔」――てな具合に、どこかしら、はぐらかしの気配が漂っていたりする。
「後悔っていうなら」という、最初の限定がポイントか? 「後悔っていわないなら、ほとんどいつも後悔じゃない」。……つまり、「後悔っていうなら、ほとんどいつも後悔」のあとに、「でも別にいいし。気にしてないし」みたいな、わりにオプティミステックな色合いの意味が折りたたまれていたりするのだ。(自分にとっては。)これってけっこう、川上弘美の小説全体にも通じる資質だと思われるが、如何だろう?