「「伝える言葉」プラス」読了

 自発的、という言葉を目にしても、特に感興が湧き起こったりはしない。どころか、なんだろう? 何か輪の中に取り込もうとしてるのか? などと、おかしな自衛心が働いてしまったりする。自己啓発商品の類は、これはもう生理的に苦手だし。まあ、自発的、というのは、文字通り「自発的」に湧き起こるものであって、他人の手による「自発的」という言葉にそのまま反応することじたい語義矛盾を含んでるからね。って、いや、そんなむつかしい話ではなく、単に、めんどくさがりの性格ってそうかんたんにはなおらないよねーということでもある。
 ただなー、今回、大江健三郎の「「伝える言葉」プラス」を読んで、ここに出てくる「自発的」なる語に――正確には、中学1年の大江少年が、子供農協組合の組合長を引き受け、自分が自発的かどうか確かめたというエピソードに、正直、触発、されてしまった。こうしちゃいられない、なにか、なんでもいい、おれも、自発的かどうか、実際に行動して確かめたい、という、わりに強い欲求に襲われてしまった。
 これには多分、蔵書を3年がかりで整理した、当時70歳の大江氏が抱いた念に依るところも大きいと思う。

 あと十五年若かったらやりなおすことができるんだが、という思いと、結局、自分はこういう者だった、という思いがあります。

 ――なんか、この文だけ目に留めてたら、たまらなく哀しくなってしまった……。他にも、<老年の絶望は、子供のそれより深いようだ>っていう記載とか。もちろん、きちんと、ただのブルーで終わるような放りっぱなしにはなっていないのだけれど。だからこその、「おれも、自発的かどうか、実際に行動して確かめたい」なわけで。(これは単に自分がたんじゅんなだけか。)
 八重洲ブックセンターでは、あさってにこの本のサイン会があるらしいよ。うーん、買ったのが丸善だからびみょうにはずした……。しかたない。また後日、他の人の記述を読んで渇を癒すことにするかな。

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