「新しい人よ目ざめよ」再読

 前に「新しい人よ目ざめよ」を読んだときには、その三島糾弾にかなり意識を囚われていたのだけれど、今回読み直してみて、別にそんなに糾弾といった声高な主張は見られず、逆に、ユーモラスといった風情で三島のことが描かれているように思えた。まあ作中では三島などとはっきりと名指しはせずに「M」とイニシャルで書かれているだけだから、もしかすると現実の三島からの乖離を目指しているのかもしれないけれど。例えばこんな文章。「落ちる、落ちる、叫びながら……」より。

あのMの「生首」の力が青年らをかりたてているのならば、おれとしても逆に「生首」の力の前にたじろぐわけにはいかないぞ、避けはせず、逃げ出しはせず、「生首」の力に対抗して立っていなければならぬぞ、この屈強な私兵どもによく対抗しうるのでないにしても、イーヨーの前で打ちのめされることになるのだとしても――

 ぶっちゃけ、これってミスリードなんだよね。前回気付かなかったのかどうか、その誤った印象のままでこの本のことを記憶してたのだから、まあ何というか、正直、肩すかし――というと語弊があるかもしれないけれど、でも実際にそんな感じだった。先日読んだ「「伝える言葉」プラス」で、「個人的な体験」について、三島由紀夫がその結末に難癖を付けたことを、あまり心地よい気持ちで思い返してなかったようなので、そういえば、「新しい人」でも、三島の自決に対する怒りのようなものが表明されてたよなあ、と読み返してみたら、こんな具合。そう、前回読んだときには、はなはだしく、この本って怒りに満ち満ちてるなあと思っていたのに(まあそういう記述もなきにしもあらずなのだけれど)、今回読んだら、そうした怒りにはあまり触れ得なかった。特に上記の「落ちる、落ちる、叫びながら……」は、他の収録作と異なり、「文藝春秋」に掲載されたものだから、これはこっちの色眼鏡のせいかもしれないけれど、チャーミング、というか、可笑しい話として受け止めることができた。つまりは、前回は、自分の中の、あまり生首に対していい印象を持っていなかったのを、勝手に重ねてしまったんだろうなあ。