「見知らぬ乗客」

 同じパトリシア・ハイスミスの原作でも、「太陽がいっぱい」と「リプリー」とではだいぶんおもむきがちがうみたいだ。ぼくが見たのはマット・デイモン主演の「リプリー」の方で、アラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」はそのメロウなテーマ曲しか知らない。だから、「太陽がいっぱい」における同性愛要素を、淀川長治に指摘されてはじめて気が付いた人続出というじたいにわりと驚いてしまったりする。だって、「リプリー」ではそれもろに描かれてるんだもんな。描かれてないのかな? 「太陽がいっぱい」では。金持ちの息子フィリップに寄せるトムの慕情というのは。丸谷才一による原作本書評では、ちゃんと書かれてたという風に記憶してるんだけど。1960年の作。当時では、むつかしかったのかなあ。
 そしてこちらはパトリシア・ハイスミスのデビュー作を映画化した「見知らぬ乗客」。ヒッチコック1951年の作。(ちなみに、脚本担当にレイモンド・チャンドラーの名前あり。)列車で乗り合わせた見知らぬ男から交換殺人を持ちかけられて右往左往するテニスプレイヤーの話。海野弘によると、この主役のテニスプレイヤーを演じたファーリー・グレンジャーはゲイだということらしいんだけれど……うーん、とすると、なかなか意味ぶかな映画だということになる。つまり、この見知らぬ男とテニスプレイヤーとの間には、同性愛関係が隠されている、という風にも解釈しようと思えばいくらでもできてしまうというわけで。交換殺人で依頼されて殺されるのは、テニスプレイヤーの妻という設定だし。でも、ここでも、そんな美青年同士の愛だの恋だのといったテーマははっきりとは表に出されてはいない。ただ単に、見知らぬ男役のロバート・ウォーカーはへんな人扱いされて終わり。で、それはそれでぜんぜんかまわないとも思う。ある意味、リアルではあるもんね。こうした片想いって。性別問わず。決め付けちゃいかんか。
 昨日の「汚名」にも、何か隠れたテーマでもあったのかな? ぼくが気付かなかっただけで。