「万延元年のフットボール」読了

 かなり自分によい影響を与えたような気がする「「伝える言葉」プラス」で、大江健三郎はこんなことを書いている。

 じつはこれまでも幾度か、自分としては小説をやめたつもりでいた、そして再会した、ということはありました。『万延元年のフットボール』を書く前の、二年前もそうでした。
 やめたくなる(註:原典傍点付き)のは、いま書き終わった小説と同じようなものを、もう一冊書くのは退屈だ、そんなことをして何になるという声が、自分の耳のうしろあたりで話しかけ始めるからです。

 もともと、この小説には、筒井康隆の「万延元年のラグビー」や、村上春樹の「1973年のピンボール」といった諸作品の存在もあり(後者は、直接には関係ないとのことだけれど)、ふつうに興味を持っていた。それで、町田康の影響(→)に加え、上の記載にも触れ、「ほう、2年間のブランクがあって書き上げられた作品なんだ。とすると、さぞや……」という具合に、舌なめずりせんばかりにして手に取ってみたのだ。
 うむむ。どうなんだろう。いや、すばらしいことはすばらしいのだが、そして、勝手に妙ちきりんな期待をしまくっていたこちらがおろかと言えばおろかなのだが、構成ががちがちに固められた小説というのは、長編小説なのに、まるで短編小説を読んだかのような風味を読むひとに与えるんだなあと思った。読むひとって、あくまでぼくなんだけど。繰り返す。名作の名に恥じない、たいへんすばらしい小説だ。特に、最後の2章に記された業の深さには、ただただ恐れ入るばかりだった。で、そうした最後がすごいからこそ、がちがちに固まりすぎた構成に、やや物足りなさを感じてしまったというのも正直なところで。
 ぜいたく、なのかなあ。大女のジンも気狂いのギーもそれからチョウソカベにしても、あまり大々的に活躍してなかったしなあ……。スーパーマーケットの天皇は、最後の最後に出て来て、いいかんじだったけど、ただ、これも個人的には出てくるのが遅かったしなあ……。題名にある「フットボール」のイメージに、とらわれすぎてたのかなあ……。100年前とのボールのやりとりだけでなく、現代でのボールのやりとりにも、もう少し、派手がものがあれば、みたいな……。あと、登場人物の喋り言葉が、かなりに、翻訳口調だったというか……。
 いやな読者だ。すみません!(小説として、たいへんおもしろかったっす。ただ、過度の期待はやっぱり禁物っす。)
 ――あと、手塚治虫は、この作品読んでいたのかな? また例によってぼくはここに「奇子」の影を見出したのだが。