混淆文について

 ぼくの中で、日本語の文章のかたちは、はっきりと以下の3つに分けられる。
1.通常型
2.丁寧型
3.口語型
 文体、ということも、もしかすると可能なのかもしれないけれど、実際のところ、文体というのは、かたち、ではなく、もっと抽象的な、呼吸を言い表しているような気がする。その人でしか、表し得ない呼吸。つまり、通常型の中でも、丁寧型の中でも、口語型の中でも、文体が異なることは、当たり前のように、大いにありうる。なので、ここでは、便宜上、文章のかたちと呼ぶことにする。
 昨日、途中まで絲山秋子の「エスケイプ/アブセント」を取り上げた。この小説は、新潮社の新刊紹介にあるように、「双子」小説とも呼ぶべき作品だ。前半「エスケイプ」(逃亡)では、双子の兄の江崎正臣が主人公役を行い、後半「アブセント」(不在)では双子の弟の江崎和臣が主人公役を行う。ちなみに弟の江崎和臣はゲイではない。昨日は、やや言葉足らずだったかもしれない。最後に2編は、もののみごとに共鳴し、つくづく絲山秋子の芸の達者さそして深化に感服するばかりだ。もしかするとそれは、芸ではなく、絲山秋子の志に負うところが大きいのかもしれないけれど。ただし、今回は、内容ではなく、2編に採用された文章のかたちに注目してみたい。
 以下、書かれていることではなく、「どのように書かれているか」に気をつけて読まれたし。
1.通常型

 書店の仕事は、単調でつらい。力仕事も多いし、埃だらけになる、和臣はいつも雑誌で手を切っている。(「アブセント」)

2.丁寧型

 男の子と女の子が手をつないで歩いていました。途中で小さな小川があったので、女の子が小川を跳び越えて、それでも手をつないでお喋りをしながら歩いていました。(「エスケイプ」)

3.口語型

 おれだって何年も蒸発してたわけで、人のこと言えないんだが、まあ珍しいよな、この時代に学生運動やってる兄弟なんて。どういう家なんだ。(「エスケイプ」)

 特に、ぼくが「〜型」と表していることに不明な点はなかろうと思う。ここまではいい。問題は、この先だ。
「クロスオーバー」ということばがある。「フュージョン」といってもいい。大辞林によると、<二つのジャンルの音楽(特にジャズとロック、ジャズとソウルなど)を融合させた音楽>とある。ぼくは、文章において、なぜだか、こうしたフュージョンタイプのものにはげしく惹かれる傾向があるのだ。
 つまりは、二つ以上の文章のかたちを融合させた文章に。

 それ以来ちょくちょくね。若いときに、おれの活動を理解しない妹をふがいないと思ったけれど、気がついたらおれの方がふがいないわけだ。妹はおれを責めなかったし、おれも開き直ったりはしなかった。まあふがいないって気がついただけマシだが、まさかその小さな差別化だけで生きていけると思うほど世の中舐めてるわけじゃないのよ。
 でもその世の中なんですが、おれなんて全然わかってないわけよ。二十年間宇宙に行ってたようなもんだからさ。ひきこもりとおんなじ。マルクスおたく。そりゃ新聞も読めばネットもするよ、でも世の中に存在しないスポーツの合宿よ、セクトなんて。妹からみたら。(「エスケイプ」)

エスケイプ」では、全編、このような混淆文に満ちている。対する、「アブセント」では、文章のかたちは、おさまるべきところにきちんとおさまり、そこに混淆はない。人称の違いに依っているのも、当然大きいと思う。「エスケイプ」は一人称、「アブセント」は三人称。ただ、純粋に、文章のかたちとしてふたつを並べて見たばあい、かぎりなく混淆の方に、表現としての優位を感じてしまうのは何故なんだろうと思う。品揃えのいい店への信頼や、テクニシャンへの憧れへと、つながっている感情なのだろうか。(今回は、意識して、混淆文を排してみた。あまりに惹かれるから、逆に、少し距離を置いてみようと思ったのだ。)