譏られたい、かあ……

 淡々と行動を記されるより、その人の内面も描かれている方が身を入れて読めるのはどうしてなんだろう? 内面こそが、行動の答えといった風に考えているからかな? どんな事件でも、答えがなければすっきりしないというか。実際、「双調平家物語」でも、楊国忠なる人物の内面がつらつらと描かれている箇所は、「あー、いるいるこういうやつ」てな感じで、わりに読みながらアドレナリンがドバドバ出ていたような気がする。

 人の野心を譏(そし)るより、人に野心を譏られた方がどれだけましか。人の野心を吹聴する男は、人から妬まれるほどの立身を遂げられなかった男なのだ。誰がのんべんだらりと、辺土でむなしく日を送ろう。野心を持って、その野心が遂げられたればこその、この都での栄華なのだ。

「楊氏権勢」より。
 なんか、中島みゆきの「ファイト!」みたいだなとか思ってしまった。<闘う君の唄を、闘わない奴らが笑うだろう〜>的な。
 しつれいか。中島みゆきに。しかもこれ女性の歌だし。でも、若干通底してるものがあるような。ないような。
 ――にしても、権謀術数に奔走している人たちを見ると、たとえフィクションでも(じゃないのか)「大変そうだなあ」と感心してしまう。権力を守るため、自分の子を屠ったりして。怖いなあ。権力欲って。つか、この発達って、思い切り養育暦と関わっているのか?