『ことばが劈かれるとき』読了

 うう……。むつかしい本だなあ。というのは、現在自分が決して、ことばやからだが「劈かれ」た側にはいないんだろうなあということを思っているからでありまして。(あ、「劈かれ」とは「ひらかれ」と読みます。つんざく→劈く、と同じ語ですね。だから、「開かれる」や「拓かれる」よりも、けっこう激しいものがそこには含まれていると見ていいのではないかと。)で、この本で書かれているような、「劈かれ」ている側のひとたちからすると、ああ、そうなんだよねえ、わかるわかる、わたしも昔はそうだったよ、みたいに、共感をあちこちで抱けるのだろうなあ、という風にしか、ぼくは、想像できなかったのですね。うらやましいなあ、という具合に。ていうか、なんか、本全体から、叱責を喰らっているような気に……。いや、ごく真面目な、素晴らしい本だと思うんですよ。激してるとこもないし。崇高だし。だからこそ、余計に。
 たとえばこんな感じ。

 話しかけるということは相手にこえで働きかけ、相手を変えることである。ただ自分の気持をしゃべるだけではダメなのである。一般にはことばは感情の発露だと考える傾向が多いようだ――もちろんそういう場合もある。だがそれは自分のからだが閉じられている場合である。言うだけ言えばいい。相手がどう思おうと、言いっぱなし、という場合が多いのは、からだが他人(他者)に向かって劈いていないのだ。だがことばが他者との間に成り立つときには、まず働きかけ(行動)として機能する。働きかけること、感情を忘れること、対象に触れようとすることだ。

 ここんとこずっと読んでいる身体関連本1冊として、この書も手に取ったのだけれど(『原書生命体』についての言及もあり)、そして、それはそれで正解だったわけなのだけれど、そこに、教育、という要素が絡むと、慣れていないせいなのかなんなのか、わりと戸惑うものが、正直いって、ありました。駄目だなあ、自分、て感じで。まさか、今さら、劇団等に入って、からだを「劈」くこともできないし。というか、したくないし。ふう……。と、すいません。くらくなった。――というような、地ならし的効果は、あったのではないか、と。「雨降って地固まる」の「地」ですね。竹内敏晴著。ちくま文庫。88年刊。(単行本は1975年、思想の科学社刊。)ちょっぴり、時代背景による相性も関係があるような気が、今はしてます。