行かえ抹消

 中上健次の文章の行かえは編集者がやっていたっていうのはほんとうですか? で、金井美恵子は、わざわざ頭の中で、行がえを「抹消」しながら読み進めているという話なのだけれど(『重箱のすみ』)、そういえば、ナンシー関がいちばん最初にいとうせいこうに見せた原稿というのにも、行かえがまったくなかったって話でしたね。試しに、金井美恵子と同じように、中上健次の小説の行がえを「抹消」してみると……確かに違和感、ないかなあ。(『讃歌』の第2章でやってみた。)会話のカギカッコのところで、行がえが行われているのが主。今までぼくは漠然と、文章における1パラグラフというのは、マンガにおける1コマと同じ意味を持っている――時間のジャンプがあいだにある――などという風に思い込んでいた節があるのだけれど、それってまったく見当違いなものだったのか? ついでに、ナンシー関の文章(『テレビ消灯時間』)でも同じく行かえの「抹消」を行ってみたところ――ここでの生原稿ではきちんと行かえは行われているはず――これも結構、違和感なし。金井美恵子の『重箱のすみ』でも、別に行かえを「抹消」してもかまわないかも、なんて思えてしまう。もしかすると、行かえって、内容云々より、単純に「レイアウト上の理由」がメインだったりするのか? 書く人によって違う? そりゃそうだ。それに、あまりに行かえのない文章を読んでいると、どこで休憩を入れていいのかがちょっと判断付きづらいものもあるからね。『失われ』とか。プルーストの死後に出版されたものはともかく、生前のそれなんて、22ページにわたって1パラグラフなんてのもあるし。でも、同一の本でも、ちょっとそうした「改行なしバージョン」なんてのもあったらおもしろいかもしれないね。ものによったら、本の厚さが(ひょっとすると値段も)まるで違ってくるんだろうけれど。