ネオ・スリーピズム

 前世紀までの眠りは、健康や休息のためといった覚醒時の価値観で語られていたのを、今世紀においては、純粋に「眠りの眠りによる眠りのための眠り」といった、睡眠時の価値観で語られ直さなければならないのではないだろうか?
 というような与太を、こういう相談を読んでいると思ったりもするわけですよ(→)。何なんすか。もう。「夜9時間眠るわたしって問題あり?」ってのは。

 9時間は眠り過ぎでは。そのせいで新聞を読む時間も足りなくなり、ためてしまった古い新聞を引っ張り出して読むことも。読書もなかなかできません。

 眠りに罪悪感なんて持ったりしちゃいけないっすよ。古いっすよ。ここでの増田明美氏の模範的な解答に対し何ら含むところは(基本的に)ないけれども、それでも、健康ってタームを持ち出したりしたらまた前世紀の価値観に逆戻りっすよ。
 眠りは眠りとして独立して存在してそれでオッケー。覚醒時の価値観(効率主義とか)を不必要に敷衍させるのは野暮の極み。そもそもわれわれがここに存在していることと眠りが存在していることとはイーブンでつながっているのだから。
 というようなことをとうとうと説いても、まあ通用しないっすよねえ……。何せ、こうした言葉の送受ってのは——睡眠時でなく——覚醒時でしか成し得ないから。正に「寝言」と受け止められかねない。人生相談の解答として、及第点に達しない(納得してくれる可能性は低いだろうし。だから「健康」というタームがここで投下されたのはある程度仕方がないと思う)。が、それはじゅうじゅう承知の上で。判官贔屓というか、あまりにもその存在がないがしろにされているような気がして、今回、眠り側の肩を持ってみた次第であります。
メメント・モリ(死を想え)」の眠り版ってのはないもんですかね? 「今宵の眠りを想え」みたいな。「眠りに命をかけている」ってのは、けっこうわりに、最近のこちらの心情にフィットしているんですけれども(ないがしろにしないという意味において)。