羞恥範囲考

ダカーポ」を再度立ち読み。前回は気付かなかったのだが、池松江美こと辛酸なめ子も文章上達コーナーに出ている。これを読んで、彼女の文章には一人称が極めて少ないことを知る。ほんとうだろうか。そう書かれていると、確かにそんなような気がしてくる。つまり、辻仁成の超有名な「婚姻届が受理された」と同じ類いの、「僕」「わたし」が登場しない“ぼやかし”文。彼女は「“私”という語をつかうことが申し訳ない云々」と語っていて、ああ、それはわかるなあとその羞恥心に深く同調した次第。と同時に、そういう羞恥心はあっても、別なところの羞恥心がきちんと弱まっているのは、やはり人間の能力に限界があることの証左だろうかなどと考える。