顔が見えない

 最初から、出てくる姉妹全員が自殺することが示されている。その上で、話は過去から現在に向けて展開されていく。かといって、別に、センセーショナルに「誰がどのように死んでいくのか」について焦点は合わされず。というのも、語り部にちょっとした“工夫”があるから。工夫、すなわち、語り部は、複数の、名もなき男たちが担うのだ。「ぼくら」と称する彼らは、奇妙な死を遂げる姉妹たちに全員恋をしている。互いによる規制も働いているのか、そもそも、自分たちの過去を汚したくない思いがあるのか、いずれにせよ、センセーショナルな視点なんて1ミリたりとも入る隙がない。(もちろん、新聞やテレビで事件がどのように報じられたかのレポートはあるけれど。)かわりに存在するのが、思春期特有の、なんともいえない甘酸っぱさ・・・というフレーズは何だが、まあそれに類する、過ぎ去りし日々への哀惜の念。姉妹が自殺する数日前に、「かれら」は彼女たちに電話をかける。そこで交わされるのは、台詞ではなくレコードから流れる音楽。「ぼくら」がビートルズをかければ(「ディア・プルーデンス」)、姉妹はエルトン・ジョンをかける(「風の中の火のように」)。ローリング・ストーンズをかければ(「ワイルド・ホース」)、ジャニス・イアンをかかる(「17歳の頃」)。ふう。昭和は遠くになりにけり、か。といいつつ、知らなかった、これらの曲。ただ、やってる行為そのものに深く同調した次第。(「ディア・プルーデンス」は「ホワイトアルバム」に入っているので、さっき聴いた。確かに切ない。)
 最後まで、「ぼくら」の素性は明らかにされない。何人いるのかもわからない。つまり、どこにでもいる「名もなき少年たち」のかたちそのまんまだ。いや、訂正。「ぼくら」はもしかすると、姉妹の自殺と何らかの関わりがあるのかもしれない。そこらへんは、ぼやかされていて、断定できない。別に、「ぼくら」が原因で自殺した、というのではなく、なんというのだろう、おそらく70年代中頃と見られる空気、その雰囲気を体現化させたのが、実のところ、「ぼくら」という存在なのだろうか、なんて妄想めいたことを考える。“匿名”を身をまとった「ぼくら」。一応、数名の名前は明かされているし、2、3名は姉妹と実際にダブルデートをしているのだけれど。