犯行現場

 渋谷駅構内はすごいひとだかりで、ふむ、先日ここでピストルで撃たれた駅員がいるんだよなあなどと思いながら歩を進める。そのときはまだ犯人が捕まってなくて、もしかすると、もしかして、もしかするかも、などと95年のオウム事件のときのようなプチ恐怖心に絡まれたり。そこで我が学生時代なるものに思いは突如として飛ぶ。あのころは、枠からはみ出ることが真剣に恐くて、それは例えば「赤点を取らない」とか「単位を落とさない」という行為に如実に反映されてて、つまり別にやりたいことをやってたなんてことは全然なくて、翻って今は、そうした学生時代からの恐怖からは、みごとに解放されてるんだなあ、と気付く。さらに加えて、実際にひとがピストルで撃たれた現場を歩いてることより、枠からはみ出ることのほうが恐怖心では勝ってるんだなあ、とも。この場合の「枠からはみ出る」をもう少しわかりやすく言うと「存在意義がなくなる」になる。さらにわかりやすく言うと「人間社会における存在意義がなくなる」になる。ふう。なんというか、もう少し楽しい10代生活を送らせてやりたかった、と歎息すると同時に、多数が認めないであろう判断基準では十分面白かったから、別にいいか、と早歩きになったり。