またもやの感

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040629-00000066-mai-soci
 野沢尚自殺(ちなみに氏の作品は未見)の報に触れ、あれと思う。つい先日、新聞にインタビュー記事が載ってた筈なのに。つまり、そこから自殺するようなそぶりはまったく見られなかったのに。というわけで読み返してみた。2004年6月22日(火)読売新聞朝刊の解説欄。論題「子供とメディア」。

 僕自身、映像や小説でたくさんの死を描いてきた。この事件で筆を鈍らせるつもりはない。

 映像メディアが何らかの影響を及ぼすなら、そこで人間の死とは何か、暴力の痛みや苦しみへの想像力を換気させたい。過ちを犯した後、本人がどうなるか、家族はどんな思いで生きていかなければならないのか。僕らは「罪」だけを描きがちだが、社会と本人自身が下す「罪」にも目を向けたい。まさにフィクションの形で追求すべきテーマであり、それが表現するものの役目だと思う。

 ここから読み取れるのはあくまで作家としての表現欲で、それが直に死に結びつくとは思えないのだけれど。(ただ、正直上の言葉で魂が揺さぶられることはなかった。)何があったのだろうと気になると言えば気になる。関係あるのだろうか、このインタビューの元となった長崎少女殺傷事件と。さらに言うと、この記事が新聞に載ったこと自体と。
 次のようにも語っている。

 今回の事件で、人間の悪意はや憎悪はネットという器には収まらず、外にあふれ出てしまうことがわかった。匿名の壁に守られ、パソコンのキーを打つ行為の恐さを、大人も子供も知るべきだろう。

 何となく、作家は炭坑のカナリア、なんてフレーズを思い出す。鷺沢萠しかり、加えるならば窪塚洋介も。今はそういう時期なのかな。大きな曲り角、なのかな。