言葉が感情を引き起こす

 人並みに、カテゴリー別にものを書いていこうとしてみたのだけれど、どうにも、駄目だ。内容、ではなく、形式に激しく規定されてしまう。書きたいのか書きたくないのか自分でも分からないのに、例えば[music]などというカテゴリーを作成してしまうと、自然と、音楽に関する(強いていえば)どうでもいい話を書いてしまう。まあここに書かれているのはほとんどが(違うのもあるけれど)どうでもいい話なのだが。
 昨日は、同僚の言葉を借りれば「脳みそが腐るほど」暇で、その間、ずーーーっと他のひとのはてなダイアリーを読んでいたのだけれど、ついつい「みんな、いいな、カテゴリーを作ってて」というよくわからない「隣の芝生」「平均指向」心理が働いて、「よーし、おれも一丁カテゴリーを作成してみるかな」と思い立ったのが、まあ間違いといえば間違いだった。カテゴリー名に引っ張られて、どうでもいいことまで書いてしまう。
「コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー」読了。題名からすると、まるでコロンバイン校狙撃犯たちの日記のように思えるが、そうではなく、犯人とも、狙撃された生徒とも仲のよかった、青年の手記。自分が設定した目標に到達するために、故意に自分達の怒りを燃え上がらせている犯人に、若かりし頃の自分の姿を思い出したり。怒りがあるからこそ頑張れるのか、頑張るために怒りを利用していたのか。犯人がHP上に載せていた文章を読むと、著者も指摘しているように、どうしても「自分で怒りを倍増させるために書いていた」としか思えない表現があちこちに見られる。言葉が感情を解き放す、のではなく、言葉が感情を引き起こしてる、ように見える。
 まあそうした言葉の使い道をここに適用するのはナンセンスだとは思いつつ、少なくとも「他のひとがやってるからおれも」って神経はちょっと慎もうと思う。そのひとがやっている本当の精神を理解した上での行いだったらともかくも。「“学ぶ”は“真似ぶ”」? まあそれはあくまでフィジカルな面にのみ適用させておきます。メンタルな面は、真似しようにも(不器用なので)真似できないし。