「蝶のゆくえ」(「近況・日記」より)

 高橋源一郎橋本治の「蝶のゆくえ」を凄い勢いで誉めている(2004年10月13日の日記→)。ふーん。そんなにいい本なのかな、とちょっと記憶にとどめつつ(なんてクールに書いているけれど、ここの文章を読んだ時、実はかなり興奮した)、どうして高橋源一郎はいつも橋本治を凄い勢いで誉めるのだろうとちらと思う。この本だって、11月発売なんだよ。まるで高橋さん、橋本治の宣伝係といった塩梅だ。まあ実際に、「好き」というのがあるのだろう。真剣に、面白がっているのだろう。にしても、他の本を扱うのと若干違うニュアンスを感じられるのは果たしてわたしだけ?養老孟司にしても、森毅にしても、その傾向あり。何かあったのかな、過去に。もしくは、橋本治を誉めることが政治的に正しいと彼らが思っている、とか。
 ・・・穿ち過ぎですね。すいません。単純に僕が橋本治が好きだから過敏になっているだけなんでしょう。う、うーん。検索かけた限りでは、どこの連載をまとめた本かは判別できず。「婦人公論」かな。でもあれじゃあページが足りなさそうだし。「スペリオール」か。それとも書き下ろし?へへへー。何にせよ、発売、楽しみだなあ。
[付記1]

 でも、世間の人々は(作家や批評家も)、甘いものの方がずっと好きで、橋本さんの、この小説のような傑作から、目を背けたくなるはずなのだ。ほんとにもう、イヤになっちゃうね。

 ここでの高橋氏の嘆きは、おそらく自分自身の処遇に対するものも含まれているのでしょう。橋本治って、こうした自己投影を容易に許しやすい存在なのかな。(穿ち過ぎ?)
[付記2]
 この前読んだ金井美恵子の「目白雑録」で、「婦人公論」に寄せられた橋本治の文章が攻撃されていました。「どうして元桃尻娘村上龍になっているんだ」みたいな。まあ確かに、そこでの話題と「日本を憂う」という組み合わせは少々無理があったかもしれない。けれども、高橋源一郎のいうように、あれを「小説」と考えると・・・つまり内容より言葉の流れに僕なんかは惹かれているのかもしれないなあと思った次第。音楽、というか。