フリースタイルvol.2を買ったよ


巻頭企画・私たちの「少女漫画」。鼎談メンバーにやまだないとよしながふみ福田里香を迎えています。
まあ、何はともあれ、よしながふみのこの発言からピックアップしていくべきかな。

〔略〕私、少女漫画って一様に言えるのはやっぱりマイノリティのためのものだなと思う。女の子って、もう女性っていうだけで経済的にも権力の担い手としても腕力の世界でもマイノリティだから、社会の中で。で、そういう人の、たたかって勝ち取って一番になるっていうことが基本的にできない人たちが読む漫画だと思ってる。頑張ればなんとかできると、いくら少年漫画を読んでも思えないっていう人たちのために、その人たちがどうやって生きていくかっていうことを、それは恋愛だったり、友情だったり、っていう、それぞれの形で答えを少女漫画は提示している。
〔略〕でもいまって女性もだんだん自己実現できるようになってきたでしょ。だから女の子が少年漫画を楽しく読めて少女漫画が売れなくなってきてるのはある種の必然だと思う。で、今はそのかわり負け犬はいるので、男女問わず負け犬の読む漫画としてサブカルがあるのではと。

う、う、う。何か、そそるものがありますね、この発言。いや、決して否定的な意味ではなく。ポイントとして、この発言の主が、よしながふみだということが挙げられます。うん、好きっすから。この人の漫画。(今度出る白泉社の「大奥」楽しみにしてます。)つーか、実作者側の人間だからね。創作においては。その、実作者側の人間が、こうした、はっきりと、少女漫画はマイノリティのものである(だから、決して少女限定のものではない)――と言っているところに、何か、こう、しみじみとしたものを感じているわけで。実際のところは、どうだかわからないけどね――つまり、どういう人間が少女漫画を読んでいるのかについては――と、一応付け加えておきますが。
もうひとつ。やまだないとの「メゾン・ド・ヒミコ」評。(もしくは、「大島弓子を理解したがる男について」。)

やまだ 男の人って大島弓子、分かりたがるよね。
よしなが 学者の先生とか好きですよね。なんでなんだろう。
やまだ  『メゾン・ド・ヒミコ』(2005年秋公開。犬童一心監督による大島弓子の「つるばらつるばら」の映画化企画から展開した、オリジナル作品。ゲイの父親に捨てられた少女が、彼の恋人に招かれ、死を間近にした父のもとへ。そこはゲイの老人ホームだった)を見たのよ。オダギリジョーがかわいいのよ。もう少女漫画みたいなの。だから少女漫画として見れば見られるんだけど、だけど、なんか恥ずかしいのね。私たちがゲイの人たちに、私、ゲイの気持ちが理解できるって少女漫画の感覚で言っちゃうみたいな居心地の悪さ、恥ずかしさを感じるのね、男の人が大島弓子を解き明かそうとするのを見てると。そりゃ無理だよ、女の子に生まれなかったんだからあきらめな、って思うんだけど。

ああ、こういう風に感じる人もいるんだなあ。自分なんか、その「漫画っぽさ」に惹かれてしまいましたからね、あの映画。恥ずかしさについては、そりゃ感じないでもなかったけど、別に、それがすぐさま「監督が男だから」とか、そういう性別の方向には向かなかったです。「泣かせる」方向において、ちょっとそれを感じたくらいで。(でも、自分としては全然オッケーな範囲。)それと、やっぱり「オダギリジョー鑑賞ツール」として、あの映画は強烈なんだなあ……。(しみじみ。)