ペンの持ち方が思考を左右するって話

あ、いや、橋本治の本で読みましてね、ほんとうのところどうなんだろうって試してみた次第なんだ。
まあ、パーソナルな状況では、通常とは違うペンの持ち方でも構わないのだけれど、パブリックな状況では、大多数の人が支持している持ち方のほうが都合がいいのかな、という風に、当初の自分の予想とは正反対の結果が出て来て、ちょっとうろたえてしまったりしてね。
うーん、ほんとうは、マイナーなペンの持ち方の味を殺すのはしのびないかなーと思ってこんな実験をしてみたんだけどなー。あいたたた、ではあります。
いや、にしても、実際不思議。

「ちゃんと筆記具を持てる」という条件がないと、思考が限界にはまって歪んでしまう。「これでも書けてるんだからいい」と言う“自由派”は、思考の限界に気づかずに、せせっこましいところで辻褄合わせをしているだけの自分に気がつかないだけなんですね。

私は、エラソーなことを言っている若い人間がへんな筆記具の持ち方をしているのを見たら、「あ、こりゃだめだ」と見放しちゃいます。言ってもむだだと思う。その不自由な限界の中で「不自由」を感じずにすんでいる人間には、なにを言ってもむだだと思う。言うべき時は、その人間が、自分の不自由に限界を感じたときだけです。

中央公論新社刊「天使のウインク」より。
ふーむ。ちょっとだけ、うべなえない感じ。マイノリティー応援体質がこれへの共感を阻んでいるのか?