置き換え自由

 昔、小泉今日子永瀬正敏が離婚をしていなかった頃、ということはつまり、渡部篤郎村上里佳子も離婚をしていなかった頃、ナンシー関が、どうして永瀬正敏渡部篤郎浅野忠信を好きだという人たちはどこか自信満々な雰囲気を漂わせているのだろう? との疑問を呈していたことがありました。(今確認してみたら、もう6年も前の話なのですね。時が経つのは早い。)彼女にしてみれば、特別、この謎を解明したい、というよりも、むしろ、永瀬・渡部・淺野を好きだと自己申告する人たちに共通する空気を、単純に俎上に載せてみたい、という欲求が強かったような気がします。

 渡部篤郎浅野忠信永瀬正敏でも同じ。以下全ての「渡部」は他の二人に置き換え自由)が好きであるということには、いろんな意味が含まれているようである。非ミーハー宣言、私はバカじゃない宣言、感性に自信あり宣言など。プロフィールというのは、どんなものでも「自分はこう見られたい」という宣言書の側面をもつと思う。それが就職時の履歴書でも、酒の席の自己紹介でも。「好きな俳優・渡部篤郎」というのが、そういう自己像構築の効率のいい1エピソードになっているのである。そして、渡部篤郎のイメージもまた、「渡部篤郎が好き」というエピソードがそういう効果をもたらすということに影響を受けている。

「何だかんだと」より。
 うーん。今思うと、なかなかにむつかしい問題を孕んでいるような気もしますね。好きなタレントの申告が、そのまま自己申告にもつながる(と、いうことになっている)構造……。
 下、橋本治の「失楽園の向こう側」より。2000〜2003年のいずれかに書かれた模様。ということは、上のナンシーの文と同時期に書かれたとみなしても構わないのではないでしょうか? 好みのタレントの申告と、自己申告との関係について、うんぬん。

「自分を語る」をやると、暗くヘビーになる。集団の和を乱す。「自分」というものは、既に確立されているはずのもので、だからこそ、集団の輪の中では、「カップリングの相手にはどういうタイプがいいか」を主張しなければならない――そういう前提のある中で「自分の主張、自分であることの主張」なんかを語ったら、平気で嫌われるだろう。「この集団は、自分に対するためらいを捨て、後は配偶の相手を求めるだけでOKの、完成された人間だけによって構成されている」という、暗黙のルールがあれば、ここで、正当な自己主張は排除される。「自分は完成されている」――それがまず最初に来るのだから、そこで語られる自分とは、「余裕ある自身」であり、自分を語ることは「ついでのおまけ」のようなものだ。

 ――「余裕」ってのがキーワードなのかな?