岩波新書『アジア・太平洋戦争』読了

 どうせ後から振り返れば、この時代は狂気そのものに見えるんだろうな。だけれども、きちんと、そうなるべく必然があったことはあったんだ。
 というようことを、山田風太郎の『戦中派不戦日記』に書いてあったのを思い出しました。どこだったかな、と今ページを繰ってみるに(たしか8月15日以降にあった筈)、ああ、1945年10月1日の記載でした。現在、引用文を載せるのを控えようかと思い始めているので、後ろ髪引かれる思いで断念するけど、興味ある人は、講談社文庫版の541ページ6行目以降に載ってます。もしよければ、ちらと目を走らせるのも一興かもしれません。(というか、必読かも、です。)要するに、ぼくが上に書いた文が、もっともっと崇高に書かれているという次第。
 そんな、当時23歳の山田風太郎青年には申し訳がないけれど、この本を読んで、どうしても出て来るのが、うーん、狂気じみてるなあ……というフレーズだったりします。そんなことを言ったら、今だって、後から振り返れば、存分に狂気じみているということになるのだろうか? 最後のページまで、ボルテージを上げられまくりでしたよ。染まってしまったか? ほんと、知らないんすよね。恥ずかしながら。あの戦争全般に関して。沖縄戦のことも、特攻隊のことも。詳しくは。こうして、ボルテージが上がることがあらかじめわかっているから避けてきた、という面もあるといえばあるのだけれど。(ボルテージの上がった先生たちの影響が、ようやくにして、抜け始めてきたということかもしれません。)
 それにしても、現代日本の利己主義が、闇市場の拡大と共に形成され始めていたというのは、なんか、説得力がありすぎて、逆に眉に唾をつけてしまいます。ほんとうかしら? これはちょっと自戒をこめての疑い。