『細雪』は楽しい

 権威に弱いのかなあ? この記事(→)の、

「日本文学では谷崎潤一郎の『細雪』がすばらしかった」

 発言に触れ、再びぱらぱらと捲っている日々であります。
 で、まあ最初は、時間があるときに、のんびりと、という風だったのに、やっぱりページターナー、すごいっすね、ごりごり、と音が出るくらいの勢いで、まさに「読まされている」といった状況に最近はなりつつあります。
 ああ。うまそうだなあ。鮨屋与平の明石鯛。あの底光りする白く美しい肉の色が、ぼくの眼の前にもちらついて来ます。と、私的な感想はともかく。
 まあ、これもどうでもいいといえばどうでもいいのだけれど、ぼくが、いちばん最初に『細雪』に興味を持ったきっかけは、『村上朝日堂の逆襲』における、

 なにしろ暇なものだから、僕はこの時期だけで、「講談社・少年少女世界名作全集」を読破したし、『細雪』なんて三回も読んだ。

 との記載なんですね。この時期、というのは、結婚して2年目というから、村上春樹氏20台半ばの頃か? 「三」の数字に、妙なリアリティを感じ取ったりして。
 そういえば、これもまた『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』に、『細雪』フリークの「ニューヨーカー」編集者が登場していました。仕事場の本棚に、英訳『細雪』半ダース並べてて、「どうしてそんなに同じ本を何冊もそろえてるのか?」と村上氏が訊くと、

「ここを訪れるみんなに、その質問をさせるためだよ」、彼はにっこり笑って言った。
「そうすれば、それがどんなに素晴らしい本かを説明することができる。そして興味を持った人には、一冊プレゼントすることができる。君も欲しい?」
 けっこうです、と僕は笑って言った。日本語のを一冊うちに持っているから。「ああそうか、君は日本人だったな」

 一瞬、この編集者って、上の記事の人じゃないかと思ったりして。(違うけど。)