『細雪』のabjection

 金井美恵子著『小説論——読まれなくなった小説のために』読了。87年に岩波書店から出ていたものが、このたび朝日文庫で登場。面白かったっす。もういちど読みます。(朝日文庫関係者の方々、次は1989年の『本を書く人読まぬ人とかくこの世はままならぬ』を、是非。)
 と、その前に——。
 先日『細雪』を読み終えたばかりなので、どうにも、それに関する記載が気になって……。つまりは、金井美恵子氏が、あの小説のどの部分に着眼していたか(それを言語化しているか)ということなのだけれど。それが、自分のと、いかにずれているかが、この本自体が醸し出す魅力とはまた違った意味で面白くて。

 一番最後に、雪子が結局見合いに成功して、結婚式のために東京へ行くのですが、そのとき二、三日前から続いている下痢が治らなくて、まだ下痢が続いていたというところでこの小説は終わるのですが、そういう普通の小説にはあまり書かれたことのない下痢や顔のシミ、非常に女性的な、まあ、下痢が女性的というわけではありませんが、体のなかに一種のアブジェクシオンとでもいいましょうか、醜悪なものとして隠されていたものが表面に、ある時期を伴って、ある時間の移り変わりと同時に、シミとか下痢とかいった生理的なネバネバしたものがつねに表面に現れてくるというイメージが、最初から最後までひとつにつながっています。

 そうかー。まったく気がつかなかった。というか、「下痢」とか、「シミ」とか、さらにいうと、「流産の残りの血液」とかを、ひとつのカテゴリー(粘液的なアブジェクシオン)として捉える、という見方もあるのか。という件に関し、そうかー、と、心底から思ったのです。「下痢」も「シミ」も、(まあ「流産」は気の毒だけれど)、とくべつに「醜悪なもの」としては捉えてなかったので。
 個人的に、『細雪』でいちばん「醜悪なもの」といったら、板倉勇作くんの手術の記述だったりするんですよね。妙子さん形容するところの「牛肉の鹿の子(霜降り)……」。かなり際どい。ここらへんを、金井美恵子氏は、いったいどのように思っていたのだろう?