ちょっとつけたし

 名前をつけることによって人を支配するという話は、まあ『千と千尋』とか、支配云々とはちょっと違うのだろうけれど、戒名とか、洗礼名とか、ニックネームとか、そういうところにあまねく行き渡っているような気がします。こういうのものの場合、「名付けられる」側の精神状態にばかり焦点が集まっていて、「名付ける」側(その名を、実際に舌や声帯の筋肉をこれまでとは違った動かし方をして発音する側)の精神状態には、今まで、言及していることばにはお目にかかったことがなかったのですね。
 川上弘美著『風花』の中で、けっこうぼくがおもしろいなと思ったのは、「その呼び方でわたしを呼ぶな」という風に、名付け(呼び方)に関し、禁止令を発動した側ではなく、発動された側の精神状態(その変化)が、かなりの割合でピックアップされていた点にあるのだけれど――このように、名付けへのイニシアチブを握っていない側の変化に今まであまり触れる機会がなかったのは、大げさにいえば、自ら、ではなく、受動的に変わっていくことに対する「偏見」が介在していたのではなかろうか、などという風に、『いきなりはじめる仏教生活』を同時進行で読んだ身としては、思ったりもするのでした。(単なる偶然では? などといわれれば、まあそれまでなのですが。)江國香織著『赤い長靴』において、決して「ちゃん」付けで呼ぶにはふさわしくなかろうと思えるむくつけき夫が、妻からのその呼び方について、結局あの本の中では最後まで関心を払わないというのも、中々に示唆に富んでいる気が。