あなただけがあたしのいきがいだったんだわ

 にしても、おもしろいなあと(やはりこれは不謹慎ということにはなるのだろうけれど)味わい尽くしてしまいたくなるのは、以下に写したような『死の棘』における最初の畳みかける饒舌。

「おまえ、ほんとどうしても死ぬつもり?」
「おまえ、などと言ってもらいたくない。だれかとまちがえないでください」
「そんなら名前を呼びますか」
「あなたはどこまで恥知らずなのでしょう。あたしの名前が平気でよべるの、あなたさまと言いなさい」
「あなたさま、どうしても死ぬつもりか」
「死にますとも。そうすればあなたには都合がいいでしょ。すぐその女のところに行きなさい。けどあなたとちがってあたしは生涯をかけてあなたひとりしか知らないんですからね。これだけははっきり言っておきます。しっかり覚えていてくださいね。あなただけがあたしのいきがいだったんだわ。あたしはからだもこころもあなたにささげつくしました。あたしはうそを言ってるのじゃないのよ。それはあなただってみとめるでしょ。その報酬がこうだったのです。こんなひどいめにあわされて、犬ころかねこの子のように捨てられたんだわ」
「捨てはしない」
「じゃあたしはあなたのなんなの」
「妻です」
「これが妻かしら。妻らしいどんな扱いをしてもらえたかしら。なんにもしなかったじゃないの。あたしを女中とでも思っていたの。妻の扱いをしなければ捨てたのといっしょじゃないの」
「ともかく死なないでほしい」
「あなた、口先だけでそんなことを言ってもね、あたしが死なないでいいような保証ができる? 今までのあたしとはちがいますよ。お金がかかるわよ。あなたのような三文文士にあたしが養いきれるかしら」
「努力します」
「どういうふうにするつもりなの」
「もう外泊はしません。ひとりでは外に出ません。外に出るときは妻やこどもを連れて出ます。妻のほか、女と交渉を持ちません」
「あたりまえよそんなこと」

 妻側の声が、ヴィヴィッドに響いてくる。ひらがなと(ここには出てこないけれど)カタカナのつかい方が絶妙だものね。<あなただけがあたしのいきがいだったんだわ。>指を切るシーンとか、浮気相手の女が家にやってくるシーンとかいうような強烈過ぎるインパクトに隠されていた向きがあるけれど、うーん、やはり、再読しがいはたぶんにあります。
 このときに、妻が見てしまった日記というのは、『「死の棘」日記』そのものなのかな?

「あたしはね。やっぱり、あなたの日記を見てしまったときの決心を変えませんわ。あなたほんとにそれだけなの。まだかくしているんでしょう。でももういいの、あたしは決心を変えません。あなた、とめないでください。あなたという人はねえ」