「トウキョウソナタ」鑑賞

 かなりに私情に溢れた見方だと思うので――ちょっとネタバレもあるし――たたみますね。(今回はじめて、この「続きを読む」記法を使いますわ。)
 映画のセオリーにのっとれば、凄惨を極めたストーリーが、次男くんが中学受験でピアノの技を披露する時点で静謐へと転換する、というのが常道だと思うんですよ。わーなんて美に溢れたラストなんだろう(涙目)、という風に。けれどなあ……。あくまでぼくは、ということですが、あのピアノを弾いているシーンがどうにも怖くて……。次男くんが怖かった、ということじゃないですよ、むろん。そうではなく、次男くんのピアノの技に魅了され、ぞくぞくと周りに集ってくる人びとの様子が、ほんとうに怖かったのです。まるで、魂を奪われた(こんなことばをつかうのは強すぎるので避けたいところではあるのだけれど)ゾンビのように。
 で、映画じたいとして見れば、別にラストでこのような恐怖心を抱いても、なんら破綻してないとは思うのです。主演の香川照之も、(もしかすると違う意味なのかもしれないけれど)「どのカットにもホラーが潜んでいる」といっていたくらいだし。けれども、問題は――と、そう大上段に構える必要はないのですが――「ここでは、感動をしなければならない」と頭では理解しているのに、心が、少しもそれに追いつかない、という、この離反にあるのですね。いい換えると、あのカーテンが揺れる中でピアノを弾いているラストを、「不気味」として捉えようと、「感動」として捉えようと、どちらの転んでもまったくもって差し障りのない作りになっているというか。リトマス試験紙みたいなものなのかな? 「感動」した人が善人で、「不気味」と思った人が悪人? さらに穿った見方をすると、あの、次男くんのピアノに魅了され、なにも喋らず、薄笑いを浮かべながら集まってきた人びとは、成功者に引き寄せられる――そして、香川照之のような落伍者には目もくれない――我々じしんの戯画なのではないだろうか? 公園での食糧配給を、同じく無言で待っている人びとよりも、個人的には、数倍怖かったっす。特にあの、いかにも「善良」でございといわんばかりの薄笑い……。
 こんな具合に、見終えた今となっても、いまだの心の中は「どういうこっちゃ?」と混乱の嵐に見舞われている状態なのですが、これは、まんまと黒沢清監督の策に嵌った、という解釈でいいのでしょうか? ちなみに黒沢作品を見たのは、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』『ドッペルゲンガー』に続き、今回で3度目。ぼくの好きな人たちがそろって黒沢作品を絶賛する中、むつかしいなあ、という印象は変わらず、といった感じです。井川遥演じるピアノ教師が、住宅地の中で、窓ガラスを開けっぱなしでレッスンしていることに引っかかってみたり、とかね。あと、もしこの映画を三浦しをん氏およびその友人諸氏が見たら、公園の中で身体を密着させる(←すいません、なんか変ないい方だな。でも実際にそうだった)小学生男子ふたりのシーンに妄想の種を芽吹かせることは可能なのでしょうか?