『最後の「ああでもなくこうでもなく」』読了

 そうなんすよねえ。終わってしまうんですよねえ。広告批評。といっても、実のところ、ぼくの関心は、この雑誌の連載を終える橋本治氏の今後の動向の方に向かっているのですが。どうするのだろう? この連載に注がれていたエネルギーはいかなる形で他のものへと受け継がれてゆくだろう? 面白いことを、やってくれればいいなあ(なるたけなら、フィクション方面に本腰を入れて欲しいなあ。『夜』という短篇集、あれじゃあ、木川田くんも磯村くんも草葉の陰から――死んでないけど――嘆いているんじゃないかなあ)と、外野席から無責任なことを思いつつ、「最後の」と冠されているこの書を繙く。
 とはいいつつ、オレ、ここに載ってたの(あとがき以外)ほとんど全部読んでたわ、ということに気がつく。雑誌掲載時に。毎回。立ち読みで。レイアウトが、エコ特集かなんかを機に変わってからは、慣れなくてちょっと数回抜かしていたのだけれど。そうなんだよなあ。だからこそ、この「最後に」という語にも、それなりの重みを伴うというものなのです。つまりは、ナンシー関が生きていた頃は、「このテレ欄に載っている番組を彼女はいかに料理するのだろう?」という雑誌を読む楽しみがあったのと同じように、たとえば安倍前総理が辞任したみたいな出来事が起きたあと、「橋本治広告批評でこの件をどのように料理するのだろう?」という楽しみが、これからはなくなる、ということを意味しているのですからね。ああ、ざんねんだ。ほんとうに。(連載じたいはまだ続いているのですが。)
『ああでもなくこうでもなく』の1巻で、「始めました」と告知されている『双調平家物語』が、この巻で、無事に締めくくられたことが報告されているのを見て、まあ、これはこれで、きれいな終わり方なのかもしれないなあ……とは思いつつ、うーん、やっぱり、淋しいっすね。こうした欲望が露呈された文章はそれこそ氏の嫌うところなのだろうけれど、それでも、淋しさは、つきまとうというものです。1冊の本として通して読むと、きちんと、政治・経済・芸能・スポーツあと事件とバランスよく配分されていて――連載当時は気がついていなかった――そういうところにも、氏のなみなみならぬ力量が表れてはいる……などと、惜しんでばかりいても、しょうがない。

「努力」というのは不思議な言葉で、人から「努力しろ!」と言われると、テキメンいやになる。「誰が努力なんかしてやるもんか」と思うのは、「努力しろ!」と言われるときの努力が、「自分のため」ではなくて、「しろ!」と言った相手のためだからだ。ところが、自分で「努力しよう」と思うと、このニュアンスが違ってくる。「努力するしかないな。努力しよう」と思うと、その時から、「自分には“自分”という枠を外側へ向かって拡大できる余地はあるんだな」と思えて来る。その「余地」が見えなかったら、「努力しよう」なんて言えない。「自分」という限界を外に広げられる余地のない努力は、ただ「我慢する」だけになる。

 好き嫌いはあるだろうけれど、この手の文章は、やっぱりうまいっすよね。落ち込んでいるときとかに出会うと、とくにそう思う。……なーんてね。かっこつけることないか。好きですね、やっぱりぼくはこういうの。下手に絶望を煽るようなものより、ずっと。2008年。マドラ出版刊。