体の声を聞くということ

 最近本を読んでいたら「体の声を聞く」というフレーズをよく見かけるのだけれど、んー、これはいわゆるシンクロニシティってやつなんですかね? というか、そもそもぼくの体が「声を聞け!」と訴えているからこそ、こうしたフレーズが気になるようになっているのかしら? まあその最近読んでいる本というのが、駅伝小説『風が強く吹いている』(三浦しをん)だの、『走ることについて語るときに僕の語ること』(村上春樹)という、どちらかといえば――という保留を付ける必要もない――フィジカルなジャンルを扱っているものだからこそ、「体の声を聞く」というフレーズにお目にかかる率が高いのだろうけれど。

 毎日身体を動かしていると、そういう声が聞こえやすくなってくる。(『走ることについて語るときに僕の語ること』)

 とはいいつつ、苦手なんすよね。この手の声を聞くのって。むかしっから。現時点だって、昨晩米を食い過ぎての、若干の弱腸状態……。橋本治は、前に、脳みそを中間管理職、身体をその部下に喩えていましたが(『「わからない」という方法』)、なんとなく、脳みそを首相に、身体を国民に喩えたほうが、自分的にはしっくり来るところがありますね。おいおい、ちゃんと国民の声を聞いてくれよー、国情がぐだぐだになってんじゃねえかよーと、自分で自分に突っ込みを入れたりしてね。
「まあせめてストレッチでもして、気合いぐらい入れ直そうや」と、直前に身体からのメッセージがあったので、この文章は、律儀に、全身の準備体操をしたあとに書いてみました。いやほんとにしましたよ。腕ぶんぶん回したりして。さすがにふだんはしません。そんなこと。