『望みは何と訊かれたら』読了 

 去年の暮れまで1年以上も読売に連載されていた小池真理子氏による『ストロベリー・フィールズ』という小説はほんとうにおもしろくて、その連載されていた間に味わうおもしろさというのはそれこそ刹那的なものだから、たぶん一冊の本として後にまるまる通して読んだ際に感じるであろうおもしろさとはまた(当たり前だけれど)ちがうんだろうなということを思うと、上に書いた「刹那」の文字もまたそれ相応のものとして輝き出すというものです。まあどっちが上とか下とかいうことではなく、ここではその一回性、ってことを強調してもみたいような。それ以上に、小池真理子氏の小説っておもしろいんだなあと今更いわずもがなのことをもいいたくはあるのだけれど。(脱線すると、「切ない」って→「刹那い」と書いても洒落でぜんぜん通るところはありますね。)
 というわけで、そのライブ感へのトリビュートというか——週刊新潮で途中まで連載を読んでいたものの諸処の事情でこの雑誌じたいを購入するのを止めたせいで続きが気になっていたのを今回ようやく図書館を利用し確認してみたという次第。いやほんとうは文庫本になった際に買おう買おうと思っていたのだけれど。とかなんとか矮小な言い訳を挟みつつ。小池真理子著。2007年。新潮社。
 あれですよ。不倫。監禁。殺人。ああインモラル。←って書いても何ら伝わらないとは思うものの、しかし、こうした材料に対する需要というのはやはり確固として存在するんだろうなということが垣間見える……見えるのだけれど、愛、ってものを(なんて書くとそれこそこちらの頬も赤らんでしまうというものですが)、ここでは何ら既定のものとして扱っていないってところが……おもしろいのかな? さっきから「おもしろい」「おもしろい」ということばを連発していて、それがどう「おもしろい」のか、ということになると何ら語っていない、というのは、前に書いた江國香織氏の『神様のボート』のときと同じで、実は、まだ自分でもその正体が掴み切れてはないのですね。あくまで仮説、ということでいうと、『ストロベリー・フィールズ』のときもそうだったのだけれど、そこで描かれている女と男の関係が、というより、交わされている感情の綾目が、今まで見たことのなかったものだから、そういう意味で新鮮で「おもしろい」ということを思っていたのかもしれません。新種の蝶を見つけて喜ぶひとのような。たとえ外側に不倫とか監禁なんて皮を被っていても。まあちょっとまだ未消化で。もちろん、噂の70年代の空気ってのもどういうわけだか既視感を持って(それはもちろん映像等で今まで厭というほど触れまくっているからなんだろうけれど)こちらに迫ってくる魅力というものも又あるのだけれど。そんなことをいったら、すべての関係にまつわる感情に既定のものなど存在しない、ということにもなりかねませんが、いやいや、意外に、そうでもないからなあ。(実体験から。)だからこそ、ステレオタイプなんてことばも存在するんだろうし。
 とかいいつつ、たいくつな日常からの逸脱? そういうものがここには描かれているのか? ←これも一種の(不倫みたいなことばと同じで)皮みたいなもの?