『悪人』読了

 2007年という年にはこの本の評判をあちこちで耳や目にする機会があって、ということは必然的に食指というものの活動もそれなりに活性化するというものなのですが、その評判とともに漏れ聞こえてくる殺人が絡んでいる云々という噂にはその食指の動きも又同時に抑えられるというか何というか。殺人に関しては、当時も今も変わらず、ほら、現実世界において食傷気味なもので。とはいいつつも、2年経った現時点においてもこの本を図書館では確保するのになかなかの困難な状況に直面せざるを得ないということは、やっぱり、いいものの持つ力学のなせる技ということになるのでしょうか。
 図書館づいているので借りてみました。吉田修一著。2007年。朝日新聞社刊。で、予備知識としては、上に書いたような「殺人が絡んでいる」云々、加えてこの「悪人」ってタイトルという状態で臨んで正解。ってことっすかね。今更ながらこの本をおもしろいと評しても何の芸もないのだろうけれど、まあじっさいにおもしろくておもしろくていわゆるページをめくるのさえもどかしくてたまらなくなってしまうというのは致し方のないことかと。懸念していた、食傷気味な感覚に抵触する具合は(個人的には)皆無。←いやここがたぶんむつかしいんじゃないんでしょうか。センセーショナルってのは、どちらかといえば皮に相当するもののような気がするから。センセーショナルにも質というものが存在するのだろうとは同時に又思うのだけれど。
 相も変わらず(ていうか数年ぶりに)吉田修一氏の本を読んで心に浮かぶのが、山田詠美氏による『最後の息子』評。「ひとの見くびり方に品がある感じ」。これ、この作品にも当てはまるような。いや、見くびるってことばに(マイナスの方に)過剰反応されると困るのだけれど。(ぜんぜん関係ないけれど、山田詠美に氏を付けるのにはどういうわけだか吉田修一に氏を付けるよりも違和感がありますね。性別によるものではなく単純にこれは固有名詞として流通している濃度によるもののような気が漠然としているのだけれど。)そしてまた品ってことばも昨今用いると余計な意味が付加されるような気がしないでもないけれど、でもやっぱり激しくこの小説を読み終えて腹の中に収まったのは吉田修一氏における品の扱い方ってものでしたね。ピラミッドの比喩とか。
 20代半ばの頃、不慣れな麻雀の最中に、自分にとってはものすごくいい牌が来たので、思わず両手をぱちんと打ち鳴らしてしまったという間抜けきわまりない経験があるのだけれど(←ことあるごとにこのことでからかわれた)、このピラミッドの比喩にぶち当たった際にも、思わず「やった!」といわんばかりに、本の前で両手を打ち鳴らしていました。進歩がない……。ま、そのくらい気持ちがよかったってことです。