『失われた時を求めて』読了

 やあ。と、学校の課題とか仕事上の必要とかで手に取ったのではない、純粋に、どういうのだろう? といった好奇心でぜんぶ読み通したひととは、何となく、仲よくなれそうな気がします。握手をしたい。「ゲルマント公爵夫人とゲルマント大公夫人の区別が当初つけられませんでしたよ」みたいな話題で盛り上がりたい。
 というわけで、読み終えましたよ……。全13巻。さすがに最後らへんでは感慨があった……。えーと、最初に読んだのが2007年の5月28日(坂井泉水松岡利勝の訃報が連続で入って来た日)からだから、1年と9カ月、かかったんだな。個人的な感想でいうと、ながい付き合いでした……。面白いか面白くないというジャッジでいうと、正直、いささか不利な点はあるものの、そこはほら、あれなので。ちょっと抜粋。

 一時の愛は犠牲にしなければならないし、自分の好みを考えるのではなくて、一つの真理に思いを致さなければならない。

 ふかいっすね。上の1文は。ほんとにほんとの最後らへんに書いてあった文なのけれど。だ・か・ら・こ・そ——
 この作品は20世紀の古典たる地位を堂々勝ち得ることができたわけなんだね。
 語り部セクシャリティが著者自身のそれとは逆になっているわけなんだね。
 語り部以外の登場人物のほとんどが同性愛者で構成されているわけなんだね。
 アルベルチーヌの死さえも最後は哀しみとは認識されなくなるわけなんだね。
 いくらでもいえます。
 あ、アルベルチーヌってのは語り部の可愛い可愛い恋人の美少女のことで。途中で死んじゃうんだけれど。でも、忘れちゃうんだ。語り部。ああ哀しい哀しいたまらないってことを。年つきが経つに連れ。
 そうしたことって、申し訳ないけれど、ざらにあるじゃないすか? 取り立てて「忘れるんだよ」なんてことはいわないだけで。その忘れる過程を克明に書く、という点に、現在でも衰えぬ新しさがある、という評判があるらしいのだけれど、これって、思い切り、「一時の愛」とか「自分の好み」とかではなく、はっきりと「一つの真理」に違いないよなあ、ということを思いました。(かといって、この作品じたいのことは、ひとびとから忘れ去られてはいないということが、まあ、ふかいっすよね。)
 あるのかな、他にも。好きなひとの死をどのように忘れていったか(またどのようにとつぜん思い出すか)について取り上げられているフィクションって。何となく、現在の主流商業と結び付けるのはかなりに困難なような気が。ああ、これはこちらの勝手な偏見です。
 勝手ついででいうと、うーん、同性愛という面からの『失われた時を求めて』について、これは、そうは新しい点って、なかったんじゃないかなあ。別にシャルリュス男爵が若い男に鞭で打たれて快楽に喘いでたって——だから? とまでは行かずとも、単にプルーストの「好み」が反映されてただけじゃないか(「真理」とは関係なく)とか思った……なんてことを書いて、後日、自分の不明に身悶えすることにもなる可能性はありつつ、ちょっと現時点で正直に思ったことを記録しておきます。いやむしろ身悶えしたいくらいなんですけれど。*1
 マルセル・プルースト著。鈴木道彦訳の集英社文庫ヘリテージシリーズ。2006年〜2007年刊。前にも書いたことがあるけれど、各巻の表紙がめちゃくちゃ可愛い。第10巻における、寝室で服を脱ぐふたりの少女のイラスト(「アルベルチーヌとアンドレ」)は、結局エピソード内で、そのものずばりとして描かれてはなかったっすね。あああと、第八巻の、裸で化粧台に片手をついている少女のイラスト(「化粧をするアルベルチーヌ」)も。見落としか?
 ところで、プルーストも、ずいぶんと花粉には苦しめられていたようで。喘息への、わりに印象深い言及はあったけど、花粉アレルギーはどうだったっけかな?

*1:と書いた直後に、この小説を、プルーストは、それこそ命を削って書いた、なんて記述に関連本で触れると、やっぱり、自分の不徳に顔から火が出る思いがしますね。公平に見て。たった1年と9カ月で何様、みたいな。消しませんが。