妖怪としての金融恐慌

 なるほどなあ、と例によって例の如し、何に感心しているのかというと、先月26日の読売新聞で——またもや古い話で恐縮——山折哲雄が金融恐慌を「妖怪」に喩えていた文章に対してなのだけれど……これって、あれですよね、下の本で京極夏彦が通り魔を「妖怪」に喩えているのと——過去の日本にそういう文化が歴然と存在していたと指摘しているのと、完全に通底しているものがありますね。というような感心も。

完全復刻・妖怪馬鹿 (新潮文庫)

完全復刻・妖怪馬鹿 (新潮文庫)

 ぼくは、上の文章で、「妖怪」という言葉にカギカッコ——いわば、異化としてのフラッグ——をつけているのだけれど、山折氏も京極氏も、そんな、腰の引けたエクスキューズはつけてないもの。何となく、新聞という文脈では、「金融恐慌」と「妖怪」のどちらにカギカッコを付けるかといったら、個人的には後者(「妖怪」)だというような思い込みがあったから……。やはりほんものは凄いっすよ。まあつまり、ぼくの中にそうした「妖怪」という「装置」(またもやカギカッコ)が根ざしていないということから発せられた感心に他ならないのでしょうけれど。
「妖怪」という「装置」を経ることによって、民草(←っていい方もぼくという民草自身から発せられるといやらしいものがある……)の落ち着きを適切に取り戻すという大切な要素も、これもまた歴然と存在している筈。昨今だと、やっぱあれかな、ベタですが、その、「フェーズ云々」の周辺に対して発動するのが正しい用い方なのかと……。

京極 合理的・還元論的に突き詰めていくと、人間やりきれなくなりますよね。そもそも世界が因果律に支配されているというのは脳のまやかしなんです。そこで出てくるのが妖怪。いや、別に妖怪に何とかしてくれと言うわけじゃないですよ。(略)妖怪を感じるような世界観で、物事を捉えてみればいいんじゃない、ということ。
村上 心に「遊び」が欲しい、と。
京極 そう。文化的に事件を許容してゆく余裕ね。許容してゆくというのは、けっして許すという意味ではなくて、受け入れていくということですよ。

 でまあ、それはそれとして、話はまったく別方向にずれるのですが——。
 いや、今回はじめて見たんですよ。京極夏彦の描くマンガ。パスティーシュってやつ? この本に収録されているもの。水木しげる御大のをはじめとする、いしい、楳図、高橋、永井、赤塚……と延々続く総計25品。もの凄い画力(そして偏執狂度)。度肝を抜かれましたよ。なまじ氏の描く小説世界を愛好しているものだから、この度肝の質もそれだけ跳ね上がるというもので。
 あれですよ。また古い話ですが、前に『うる星やつら』のラムをマンガ家34名に描いてもらうという企画があったじゃないっすか(→)。これ、京極夏彦にも別ルートで頼めばよかったのに。つーか、見たかった。生で。実は昨年の夏、銀座松屋での『高橋留美子展』に足を運んだひとりとしては、そういう妄想もどうしても抱かざるを得ないのです。いいブツを提出してくれたと思うんだけど……。こちらには伺い知ることすらできないような日本古典の諸要素が縦横に駆使し尽くされたブツを。いやほんとに。