巷説元

 ひょっとすると、世代のちがうひとたちとは共有できてないのかなあと少しびくびくしつつ持ち出してみるのは、たとえばこんなエピソード。

「ある日本人がアメリカに行ってレストランに入り米を頼んでみたのだけれど、ぜんぜんウェイターに通じなかった。どうやら相手は氏の「ライス」という発音を『rice』(米)ではなく『lice』(シラミ)として受け取っていたようなのだ」

 どうでしょう?

 ……って、何でまたとうとつにこんな話を始めたのかというと、いえですね、このあいだ、20年ほど前——つまりはぼくが中高生だった頃——に出た語学学習に関する本をまとめて読む機会があったんですよ(まとめてといっても3冊だけど)。その中にね、この「米をシラミとして解釈するアメリカのウェイター」というエピソードが、実際にあった出来事として紹介されていたもので。

 80年代後半に中学生だった自分は、この話を、それこそ何回も何回も何回も耳にしたように記憶しているのですが……うーん、これってもしかすると、80年代という期間限定の巷説だったのかなあ、という思いがふと過ぎりまして。つまりは、この本(別に非難しているわけじゃないから実名を記すと、千野栄一著『外国語上達法』1986年刊)を典拠として、「米→シラミ」は独立したエピソードとしての地位を確立していったのかなあ……とか。

 どうなんすかね?*1

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 もうひとつ、上のと似たような思いを抱かせてくれたエピソードに、次のようなものがありまして。

「日本語での感謝の意を表す『ありがとう』という語を習得しようと、ある外国人は、語呂合わせで『アリゲーター』という風に記憶していた。氏が来日し、実施で日本人相手に感謝の意を伝えようとして口からついて出たのが、『クロコダイル』という言葉だった」

 ……知ってます? じつはこれ、ぼく直接耳にしたことはないんですよ。宮本輝の『彗星物語』と山田詠美の『快楽の動詞』のなかで目にした(読んだ)だけで。だから、こっちこそほんとうの期間限定の巷説か? という気がしないでもないのですが(ちなみに、これもまた典拠元を記すと、ロンブ・カトー著『わたしの外国語学習法』1991年刊。文庫版。再読っす→)。

 まあただ、巷説とはいいつつ、もちろんそれは日本語使用圏内におけるものだから、いまでもこの「アリゲーター」は、実のところ、諸外国の日本語学習者の間で定番エピソードとしてふつうに活躍しているのかもしれません。つまりは、ぼくとしては、感知のしようがないと。

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 さて、そこで出てくる、今回触れ得た正真正銘の「巷説」。

This actually happened to a Chicago woman, a friend of my mother. One day her cat came in out of the rain all wet, so she put in her microwave to dray it off. The cat exploded and the door flew open, hitting her in the face and breaking her jaw. She sued the microwave company, claiming a defective door latch, and won a huge settlement of the dameges.

(これは、私の母の友達で、シカゴに住んでいる女性に実際にあったことだ.ある日,彼女の飼っている猫がびっしょり雨に降られて家に帰ってきた.乾かしてやろうと思い,猫を電子レンジに入れて,スイッチを入れた.そうしたら,猫は爆発してしまい,彼女はぱっと開いたレンジのドアで顔を打ち,あごの骨を折ってしまった.ドアに欠陥があったといって,彼女はメーカーに対し訴訟を起こし,損害賠償で大金をもらったという.)

 どうっすか? たぶん広く知られているのは、このバージョン(→)だと思うのだけれど……。あごの骨うんぬんについては、ぼくは今回はじめて見ました。

 マーク・ピーターセン著『日本人の英語』の例文より抜粋。1988年4月刊。

日本人の英語 (岩波新書)

日本人の英語 (岩波新書)

 名著っす。刊行年に従って、中身も古いのかなあとみくびっていたぼくが馬鹿でした。この本で「over」と「around」の区別が、ほんとうに、目から鱗が落ちるかの如く、論理的に理解できた次第……というような話は、今回はおいといてですね。

 日本において、この巷説が広く知れ渡るようになったのは、もしかすると、この『日本人の英語』の馬力に拠るところもあったのではないかなあ、という妄想に現在のぼくはとらわれているのです。何せ、上の巷説が紹介されているジャン・H・ブルンヴァン著『消えるヒッチハイカー』なる本が日本に上陸したのが1988年10月だということだし……。6カ月も早い。

 どうなんすかね? 自分にとってはかなり意外な組み合わせだったので、試しに食らいついてみたのですが……。ここらへんの事情は、既にもう詳しいひとたちの間では常識となっていることなんでしょうか?

*1:付言。この「米→シラミ」のエピソードは、何というか、いろんな意味で秀逸ですね。「LとR」の区別がつかないという違和感(その感触)を、われわれは——というか、少なくともぼくは——正確に想像することができないのだけれど、それを、「米とシラミ」の区別がつかないという違和感として置き換えると、ああ、なるほど、と腑に落ちることができる。
・ラ行という点で同じ:L&R
・白いという点で同じ:米&シラミ
 着目すべき「同じ」という点の取り出し方がそもそも間違っているということを如実に悟らせてくれるというか(いわずもがな、日本を代表する食としての「米」とアメリカを表す「米」という言葉の使い方も違和感を際立たせる際の秀逸ポイントかと)。