いまとは異なる

 先週の「メロディアス・ライブラリー」で小川洋子谷崎潤一郎の『細雪』を取り上げていたんですよ。*1いい放送でした。好きな感情がひしひしと伝わってくる、ってのは、ほんと、いいっす。
 有名なのかな? 『細雪』の、現在のとは違うバージョンの話。つまりは、雪子の下痢ではなく、御牧との豪華絢爛な結婚式のシーンで物語の幕が閉じる、とか。結局は別れてしまう妙子と奥畑が、そのバージョンではハッピーエンドを迎えている、とか。ぼくはいままで知らなかったから、とくにこの、妙子と奥畑とのハッピーエンドってのには、何だか、こちらの胸をはっと突くものがありましたね。そっちのほうが凡庸、現在のバージョンだからこそ一線を画し足り得ているのだという指摘は重々承知の上で。
 この違うバージョンって、叶えられなかった幸福な未来というのが、かつては存在していた象徴のようにも思えてくるんですよ。あらゆる幸福な未来の。まあ最初に現在のバージョンを読んでいるからこそ、こんな感想も出てくるのでしょうけれど。
 逆に、雪子の腹ぐあいに関しては、こういうセンチメンタルな感想の入り込む隙が少しもなくて——そこも凄いといえば凄いっすね。やっぱり、あの腹ぐあいこそが、『細雪』の肝なのかと。*2

*1:関係ないけど、小川氏は谷崎を「たにさき」と濁音ぬきでいっていました。京極夏彦のマンガで、イタコに呼び出された柳田國男の霊が「やなきた」ではなく「やなぎだ」といわれてつむじを曲げるというのがあったのだけれど、こういう場合、谷崎の霊はどういう反応を示すのだろう? というか、そもそも「たにざき」でも「たにさき」でもどっちでも構わないのだろうか?

*2:付記。翌週の、同じく『細雪』を取り上げた放送を聞いていたら、小川氏は「たにざき」と濁音つきでいっていました。発汗。すみません。こちらの空耳のようでした。……しかし、たしかに前回、耳にしたような気がしたんだけどなあ。しかも、その「たにさき」という音を聞いて、何か新鮮でいいなあと思ったんだけどなあ……。