蒸し南瓜

 おちたよー。ごめん。と誰にたいして謝っているのか。英検準1急の話っす。次回がんばる。といいたいところなんだけれども、今回にしても遣り繰り時間ぎりぎりだったからなあ。ちょっとその手の雪辱戦に乗り出すか否かは現時点においては不明っす。1次合格まで3点不足。いやー、英検サイトでパスワードを入れて、結果を確かめるまでの心臓に悪かったことといったら……。全身から変な汗出まくり。というわけで、ホルベインの色鉛筆は買っていません(少なくとも今は)。何か他に対象にかこつけるのが正解かもしれない。
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 書店でぱらぱらと手に取ったことはあって。けれども一人称がところどころ「僕」であることにちょっとした抵抗を覚えていて。というのも立派な偏見なんだろうけれども。何の話かというと、名著と名高い美輪明宏の自伝『紫の履歴書』の話っす。今回はじめて最後まで読んでみました。おちこんでたから……というわけでもないのだけれど、Wikipedia槇原敬之の項に「謹慎中に読んで深い感銘を受けたことを著者を前にして涙ながらに語った」と書いてあったのに触発され。つまりはやっぱりそうした解毒効果のようなものもひそかに期待していたのかもしれません。
 ナンシー関が、「この本をこそNHKの朝の連続ドラマにすればいいのに」と書いてたんだよね。朝の連続ドラマはともかく、この本を読んで映像化欲を掻き立てられたひともけっこういたのではないでしょうか? 今更ですが、写真ページの若き日の美輪様の輝くばかりの美しさといったら。ギリシア神話の比喩を俟つまでもないって感じで。それとも既にされたことあるのかな? 映像化。こちらが知らないだけで。不謹慎だけれど、美輪明宏の死後にそうした話が持ち出されるのは必至ではないか。と。映画化とか……。なんていうことを書くと真剣に呪われますか? これ以上の呪いはちょっと勘弁なんですが。

紫の履歴書

紫の履歴書

 とてもおもしろく、波瀾万丈で、語り口も巧みだし、夜店のようにバラエティに富んでいて、槇原敬之が感銘を受けたというのも(おそらくは「歌の心」の箇所だろう)よくよく納得せざるを得ない本ではあるのだけれど、しかし、これを出したとき、美輪……というか丸山明宏氏はまだ33歳だったんですよねえ……。ということに逆に畏れのようなものも感じる。経験値の質の違いに。濃さというか。
 個人的には「黒美輪」「白美輪」の差異、そしてそれを貫く芯にも注目したいところではありますが。当時は「丸山」ですけど。「美輪」も混ざってるだろうし。一応。
 黒美輪:

私の飢えを/寒さを/恐ろしさを/無実の罪の惨めさを/何一つ知りもせぬ奴輩よ/岩戸の外で嘲笑うがいい/勝手に死ぬまで嘲笑うがいい/嘲笑っているその口は/やがて間もなく骸骨になるのだ/グロテスクなただのカルシュームになるのだ/私にとってそんな嘲笑い声など/底無しの闇の中に虚ろに落ちていく/骨の音でしかないのだ

 白美輪:

 あの人は「美しいひとだ」と誰かが言う。/聞いた人の頭の中には既に、それだけでイメージが出来上がる。ほとんどの人が“美しい人”という言葉だけで“冷たい人“だという先入観を持つことが多い。/私は、そうは思わない。“冷たい人”の美しさは二流だと思っているから。一流の“美しい人”とは“暖かい人”であるべきだと思っているから。

 まあ実際ぼくなんかも(会ったことないけど)美輪明宏のことを「冷たい人」だという風には思えないしなあ……。とはいいつつ、上の「無実の罪の惨めさを」云々の語句の方にもちゃっかり同調していたりしてね。で、これ、黒白どちらか一方の要素しかなかったら、たぶんいま獲得しているような独特の(ある意味強固な)ポピュラリティーってあり得なかったんじゃないかな?
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 最終日直前に「皇室の名宝展」第1期にもぐり込む(→)。ほんとうに、文字通り「もぐり込む」って感じでした。「立錐の余地なし」の体現化。というのも少々大袈裟ですが。中で、眼鏡を掛けた青年が、学芸員の女の子に文句を言っている場面にも遭遇して。
女の子「でもお客様が鑑賞なさってますから」
青年「だって、『鑑賞』できないじゃん」
 捨て台詞を残して、青年は去る。残された女の子は、展示品の硝子を手持ちの布できゅきゅきゅと拭く(無言で)。こちらの頭の中では、青年の粘着質な「じゃん」の声がいつまでも響きわたる。というような下々の様子を、若冲の「白鳳図」が艶やかな笑みを浮かべながら横目で眺めている、みたいな。
 なんていうんですかねえ。こうした、「混んでる美術館」対策って、そろそろ本腰を入れてやってくれないもんっすかね? いやたぶんどこかで真面目な人たちが(いまも)真剣に取り組んでいるんだろうけれど、こちらにまで普及してない状態なんですよ。それこそ十年一日つーか、何ひとつ変わってないんだもの。ただこちらはぽーんとひとごみの中に放り込まれて耐えるのみ。毎回。昔も今も。
 映画の指定席とかディズニーランドみたいに、値段の違うコースを複数設定するとか。……無理か? 満員電車の問題でさえ満足に解決できていないのに、こっちにまで手は回す余裕はない? ピンポイント制でもいいんだけれどなあ。「若冲」と「松園」だけ見たくて「大観」と「北斎」は(今回は)いらないってひとは2割引、とか。でその「若冲」と「松園」だけは確実に見られる、みたいな。無理かなあ?
 何にせよ、上記学芸員の女の子に幸あれ。眼鏡の青年も、気持ちは判らないでもないんだけれど、でも、あんまり感情的になって相手にぶつけるのはあれだよね。
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 若冲の「老松白鳳図」ってのは、若冲の中に潜む女装欲求を存分に満たしたものである、というような記載をとある若冲本の中で読んで。その気になって今回の展覧会の中でまじまじと見てみると、まあそうなのかな、と納得しないところがないでもないのだけれど、しかし、どうにもぼくにはあの白凰の性別の区別自体がつかなかったのでした(→)。「鳳」はオスを表してるとのことですが。(「凰」がメス。)
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 にしてもいまの時期の南瓜ってのは、塩も醤油もソースも芥子もマヨネーズも何も付けなくても充分過ぎるほど美味しいっすね。